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2024.11.12

田中一村 奄美の光 魂の絵画

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田中一村 奄美の光 魂の絵画 

会期 9月19日(木)~12月1日(日) 

東京都美術館


会場は大変な混みようでした。
この混雑は久しぶりで少々驚きました。

数え8歳から晩年までの数多くの作品が展示されていて、その作品の量と多彩さと会場の混雑・・
体調を整えて出向くのがお勧めです。

柳暗く、花明らかにして、また一村あり
(一村の雅号の由来とされる陸游の詩「遊山西村」より)


昭和33年(1958)、50歳の時に奄美大島に単身移住移住。紬織の染色工として働き、生活費を貯めては、奄美の自然を主題とした絵に専念する日々を送りました。

私のゑかきとしての最終を飾る立派な絵をかきたいと考えています。(昭和37年(1962)の葉書より)

チラシ表に使われた作品
一村が「閻魔大王への土産物だ」と言葉を残した一枚
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《アダンの海辺》 絹本着色 額装一面 昭和44年(1969) 個人蔵

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展覧会の構成です。
第1章 若き南画家「田中米邨」東京時代
明治41年(1908)、彫刻師の長男として生まれた田中一村(本名孝)は、神童と言われるほどに絵の才能を発揮し、父親から米邨という号を与えられます。数え「八童」「八歳」と署名した絵が残されています。

私立芝中学在籍中からで漢籍を学び、中学を卒業した一村は17歳で東京美術学校の日本画科に入学しますが、家事都合で2か月で退学してしまいます。そして若き南画家・田中米邨として身を立てます。

20代の米邨は、中国風絵画から、現実の風景を写し取るような作品を描くようになっていきます。
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《椿図屏風》昭和6年(1931) 絹本金地着色 屏風 千葉市美術館蔵



第2章 千葉時代「一村」誕生
30歳の時、親戚を頼り千葉市千葉寺町へ移った一村は、農作業をし、内職をしながらも、絵で生きる暮らしが貫かれました。
身近な小景画、デザイン的な仕事や木彫、仏画、節句掛や季節の掛物などの作品も残しています。
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《花草文日傘(一村絵付)》昭和22年(1947)頃 布に墨画着彩 個人蔵
《牡丹菊図帯(一村絵付)》1950年代 絹地に着彩 個人蔵

昭和22年(1947)、「柳一村」と画号を改め、川端龍子主宰の青龍社展に《白い花》を出品し初入選します。
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《白い花》昭和22年(1947)9月 紙本着色 2曲一隻 田中一村記念館蔵

千葉時代は長い模索期でした。
屋敷の障壁画一式を任されるような大きな仕事もあり、
昭和30年(1955)、47歳の頃、依頼された「やわらぎの郷」聖徳太子殿の天井画を、石川県の現地に滞在もして制作し完成させました。この時期、九州から四国、南紀を廻る旅の機会を得ます。
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《薬草図天井画》昭和30年(1955) シナベニア地に着色 石川県・やわらぎの郷聖徳太子殿蔵

しかしその前後の40代も半ばをすぎてからの日展や院展への出品はすべて落選し失意のときが続きます。
50歳になった一村は、ついに昭和33年12月、当時日本最南端の奄美大島の新天地へと向かうことになりました。


第3章 己の道 奄美へ
昭和33年単身奄美大島の名瀬市に移ります。
しかし金銭的にも行き詰まったか、昭和35年(1960)には千葉へ帰ります。

自らの覚悟の甘さを認識することになった一村は、昭和36年(1961)、不退転の決意で再び奄美へ戻ると、紬工場で染色工として働いて制作費を蓄えたら絵画に専念するという計画を立てて、実践することになりました。
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《榕樹に虎みゝづく》昭和48年(1973)以前 絹本墨画着色 田中一村記念美術館蔵

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《不喰芋と蘇鐵》昭和48年(1973)以前 絹本着色 個人蔵

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《奄美の海に蘇鐵とアダン》昭和36年(1961)1月 絹本墨画着色 田中一村記念美術館蔵

 

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