小杉放菴展
小杉放菴展
会期 2024年11月16日(土)〜2025年1月26(日)
小杉放菴の日本画は、中国絵画の南宗画に由来する江戸時代後期の日本絵画『南画』の系譜に、近代的な感覚を取り入れた『新南画』と位置付けることができます。“南画の印象派”とも呼べる小杉放菴の魅力を存分にお楽しみください。(チラシの解説から)
小杉放菴記念日光美術館の所蔵作品を中心に、日本画家としての放菴にスポットを当てた展示内容になっています。
展示構成です。
<未醒>時代
<未醒>から<放庵>へ
<放菴>時代
日光の社寺と風景
小杉放菴(1881~164)は、
二荒山神社の神官で、国学者、また日光町長も務めた富三郎の子として生まれました。本名は国太郎。
10代のとき日光在住の洋画家・五百城文哉の内弟子となり、その後上京して、白馬会洋画研究所。一時故郷し再上京後は、小山正太郎の不同舎に入門し、1902年(明治35年)に太平洋画会に入会し1904年(明治37年)に未醒の号で出品するようになります。
《神橋》 1901年頃 紙/水彩 小杉放菴記念美術館蔵
五百城文哉 《西本願寺・三重塔》 1892-1905頃 紙/水彩 小杉放菴記念美術館蔵
1913(大正2)年にヨーロッパを外遊した小杉は、パリで池大雅の模写画を見てから、むしろ「東洋」に帰するべき道を見出します。帰国後は日本画の制作が増えていきますが・・・
《牧童》1916年頃 カンヴァス/油彩 小杉放菴記念美術館蔵
(左)《湖山春色》1917年頃 絹本着色 記念日光美術館蔵
(右)《煉丹》1917年 絹本着色 小杉放菴記念美術館蔵
1922(大正11)年、小杉放菴(当時は未醒)は<放菴>の号を用いるようになります。
雅号を改めたこの時期の重要な事柄として、越後の紙匠、岩野平三郎製の「麻紙」との出会いがあります。麻紙には墨の滲みやすさという特徴があり、仮名文字が発達する平安時代には難点とされ、国内産は姿を消したといわれています。この難点をむしろ魅力と考えてのが小杉放菴でした。
この時期に、代表作の東京帝国大学安田講堂大壁画を完成させるなど充実した制作活動を行っています。
《泉(断片)》 1925年頃 カンヴァス/油彩 小杉放菴記念美術館蔵
《母子採果》 カンバス/油彩 小杉放菴記念美術館蔵
小杉放菴は、初期から晩年まで油彩画と水彩画を並行して描いていますが、作品の発表数や現存数では1920年代以降は圧倒的に日本画の数が優位です。放菴の関心は日本画、水彩画に傾いていきますが、放菴は洋画家(油彩画家)としての功績により帝国芸術院会員に任じられたことから、画題や発表の場が国政に関わるものには油彩画を描くのが筋と考えていたようです。(本展会場の解説から)
(左)《仙山朝陽》1930年代後半 紙本着色
(中)《木蓮にひよ》1935年頃 紙本着色
(右)《南枝早春》1936年頃 紙本墨画淡彩
小杉放菴記念美術館蔵
《良寛》 1958年頃 カンヴァス/油彩 小杉放菴記念美術館蔵
この展覧会、撮影可です。
スマホで撮った写真をまとめてみました。
最近のコメント