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2024.02.09

四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎

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四百年遠忌記念特別展
大名茶人 織田有楽斎

会期 2024年1月31日(水)~3月24日(日)

サントリー美術館


織田長益(有楽斎 1547~1622)は、 織田信秀の十一男で、信長の13歳下の弟です。幼名を源吾(あるいは源五郎)と言いました。織田家の有力な武将として重要な儀礼に参加していました。
本能寺の変で信長が自刃すると、長益は信長の長男織田信忠とともに二条御所に移るも敵襲をうけ、信忠が親王を逃走させて自害するも長益は難を逃れます。
その後、信長の次男の信雄、豊臣秀吉に仕え、秀吉死後は徳川家康とのかかわりを深くしていきます。

大坂夏の陣を前に京都・二条へ移り、建仁寺塔頭・正伝院を再興し、ここを隠棲の地とします。
有楽斎は、利休十哲の一人にも数えられ、高僧や古田織部、細川三斎、伊達政宗などの武将と結びながら茶会を開いています。多くの文化人とも交流し、これらの活動を示す書状は今も正伝院に残されています。茶室如庵は現在、国宝に指定されています。

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・織田有楽斎坐像 一軀 江戸時代
17世紀 正伝永源院
・大井戸茶碗 有楽井戸 一口 朝鮮王朝時代
16世紀 東京国立博物館

展覧会の構成です。
第1章 織田長益の活躍と逸話―“逃げた男”と呼んだのは誰か
本章では、武将・織田長益の実像を、歴史資料を通して見つめなおします。長益は実際に何を思い、何を為したのでしょうか。

第2章 有楽斎の交友関係
本章では、有楽斎が残した書状を通して、茶人としてまた、文化人として活躍する彼の姿に光を当てます。
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織田有楽斎書状 小出信濃守宛 一幅 江戸時代・17世紀 正伝永源院 【通期展示】
有楽斎から小出信濃守への書状。有楽斎は小出信濃守から12月11日朝の茶会に招待されていた。しかし、その直前に急きょ小出が別れの挨拶をよこして上洛し、そのまま会えずじまいとなり残念だと記す。そして、来春京都で会いましょうと結んでいる。小出信濃守とは、かつて豊臣秀吉に仕えた尾張出身の大名小出吉政(1565~1613)または吉政の次男小出吉親(1590~1668)と推定される。(キャプションから)

第3章 数寄者としての有楽斎
今日各地に伝わる、かつて有楽斎が所持した、あるいは好んだと伝わる茶道具の名品から、数寄者としての有楽斎の姿に触れることができます。本章では有楽斎旧蔵の伝来を持つ茶道具、また「有楽好み」をうかがい知ることのできる品々をご紹介します。(本展解説から)
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唐物文琳茶入 銘 玉垣 一口 南宋時代 12~13世紀 遠山記念館 【通期展示】
底面に見えている胎土が神社の朱塗りの垣根(緋の玉垣)を思わせたことから「玉垣文琳」の銘が付いたという。慶長17年(1612)、豊臣秀頼が有楽斎邸に御成りの際、有楽斎から、豊臣家へ献上された。大坂夏の陣で大阪城が落城すると玉垣文琳は蔵の崩壊に巻き込まれて割れてしまうが、焼跡から欠片が発掘され漆で見事に修復された。(キャプションから)

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重文 緑釉四足壷 一口 平安時代・9世紀 慈照院【通期展示】
猿投窯(現在の愛知県)で平安時代に焼かれた高級施釉陶器。中国・越州窯系の青磁四足小壺をモデルに、その形を大型化したと考えられている。本作は有楽斎から京都・相国寺の塔頭である慈照院の僧昕叔顕啅が茶の湯を通じて親しく交流していたことがうかがえる。(キャプションから)

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呼続茶碗 一口 桃山時代 16~17世紀 永青文庫 【通期展示】
呼続とは、茶碗などの欠けた部分を別の陶磁器の破片で継ぎ合わすことで、一般には同系統の陶片を組み合わせる。本作のように濃い茶系色の釉薬のかかった瀬戸と染付陶片は互いに質感も異なり意表を突く組み合わせであるものの濃茶色と染付の青色がよく調和し大いに茶味を増している。細川三斎(忠興)所用の伝来を持つ。(キャプションから)

 

第4章 正伝永源院の寺宝
現在の正伝永源院に伝わる寺宝は、必ずしもすべてが織田有楽斎の生きた時代から所蔵されていたものと断定はできません。しかしながら《織田有楽斎像》をはじめとする絵画、墨蹟類、そして寺内に残る狩野山楽の襖絵など、貴重な寺宝が現在も脈々と継承されています。本章では有楽斎没後の正伝院に納められた寺宝を中心にご紹介します。(本展解説から)
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蓮鷺図襖(部分) 狩野山楽 十六面 江戸時代 17世紀 正伝永源院 【通期展示】
正伝永源院客殿の室中には、有楽斎が再興した正伝院から移された蓮鷺ず襖がある。金地を背景に緑鮮やかな蓮の葉を白く正常な蓮の花が連続して描かれる。空には鷺や燕が軽やかに飛びかう。東側には咲き始めの蓮の花、北側には満開の蓮の花、西側には散りかけた蓮の花や枯葉が描かれ、一部屋全体で季節の移ろいが意識されている。同じく正伝院にあったとされる「禅宗始祖図」と同じように筆者は狩野山楽(1559~1635)と推測されている。(キャプションから)


第5章 織田有楽斎と正伝永源院―いま、そしてこれから―
本章では、正伝永源院と寺号を改めた後に納められた寺宝を中心にご紹介します。
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黒樂「正傳院」字茶碗 伝 仁阿弥道八 二口 江戸時代・19世紀 正伝永源院 【通期展示】
正伝院のために作られた黒茶碗。口縁がやや内に抱えこみ、胴には小さな鋏あと(焼成後、釉が冷える前に窯ないから茶碗を取り出すのに用いる鋏の跡が認められる。黒釉の中に「正傳院」の三文字が白く鮮明に浮かび上がる。共箱や印・銘はないものの、江戸時代後期の京都の投稿仁阿弥道八(1783~1855)の作とつたわる。(キャプションから)


―HPの解説ー
有楽斎(うらくさい)こと織田長益は天文16年(1547)に織田信秀の子、織田信長の弟として生まれました。武将として活躍し、晩年には京都・建仁寺の塔頭「正伝院」を再興、隠棲します。正伝院内に有楽斎が建てた茶室「如庵」は国宝に指定され、現在は愛知県犬山市の有楽苑内にあり、各地に如庵の写しが造られています。正伝院は明治時代に「正伝永源院」と寺名を改め、いまに至るまで有楽斎ゆかりの貴重な文化財を伝えています。
しかし茶人・有楽斎として名高い一方、武士・長益には悲観的なイメージも伴います。天正10年(1582)に起きた本能寺の変では、二条御所に籠る長益の主君・信忠(信長の長男)が自害したにもかかわらず、長益は御所を脱出したことから、京の人々には「逃げた(男)」と揶揄されました。さらにその後、信雄(信長の次男)に仕え、徳川家康と豊臣秀吉の講和を調整するなど存在感を示したものの、信雄が改易されると今度は秀吉の御伽衆に加わります。関ヶ原の戦いでは東軍として参戦し、戦後も豊臣家に仕えましたが、大坂夏の陣の前には家康の許可を得て主君から離れました。
信長、秀吉、家康の三天下人に仕えて時流を乗り切り、晩年を京で過ごした織田有楽斎の心中には、どのような思いがあったのでしょうか。本展覧会は、2021年に400年遠忌を迎えた織田有楽斎という人物を、いま一度総合的に捉えなおそうと構成したものです。

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