「鎌倉幕府と執権政治」ー國學院大學図書館の名品ー
「鎌倉幕府と執権政治」ー國學院大學図書館の名品ーは、
國學院大學博物館で開催されています。
会期:令和4(2022)年4月2日(土)~5月14日(土)
開館時間は、水・木・金・土曜日の12:00~17:00(最終入館16:30)HPのカレンダーでご確認を・・・
ーHPの解説からー
本展では、反平家勢力の庇護者であった鳥羽天皇皇女八条院周辺の文書史料、久我家文書の源頼朝・北条義時・北条泰時発給文書、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』に題材を取った奈良絵本『あさいな』など、初公開を含む本学所蔵資料から、頼朝や義時の時代をみていきます。
私のような「歴史に疎い」者には、予習として本展の解説動画視聴は必須と思いました。
春の特別列品「鎌倉幕府と執権政治」を特別解説!
國學院大學博物館 Online Museum
(クリックで拡大表示になります)
展覧会の構成は以下の通りです。
序章 源頼朝の挙兵と平家の滅亡
奈良絵本『平家物語』巻九「敦盛最期のこと」 江戸時代前期
第1章 武家政権成立期の八条院
鳥羽天皇の皇女八条院暲子内親王(1137~1211)は、父と母美福門院から愛され、近衛天皇の没後には女帝に推されたという。
彼女が好むと好まざるとに関わらず、八条院は反清盛勢力の庇護者となっていた。
その八条院の家政機関職員のもとにあった文書が廃棄され、高山寺で聖教書写に再利用された。「八条院関係紙背文書群」と称される文書の一部が本学(國學院)にも所蔵されている。
重文「八条院庁下文」久我家文書 寿永2(1183)年9月25日
國學院大學デジタルミュージアム 八條院廰下文【眞清田社重書】
第2章 源氏将軍の時代
頼朝が亡くなり、子息の頼家、次いで実朝が将軍になると、外祖父北条時政が幕府政治を支えた。
以仁王による平家追討命令を起源とする「関東」(鎌倉幕府)の歴史は、鎌倉時代末期に歴史書として編纂された。後世、この『吾妻鏡』に取材した文学作品・絵画作品がいくつも作られている。
『吾妻鏡』伏見版 巻二十一「朝夷名の門破り」 建保元(1213)年5月2日条
國學院大學デジタルミュージアム「吾妻鏡 巻第二十一」
『あさいな』下巻「朝夷名の門破り」寛文・延宝頃写
第3章 承久の乱と執権政治
承久の乱により、高倉天皇の孫(後堀川)が新たな天皇に立てられ、後鳥羽院は隠岐に流された。時房・泰時らによる戦後処理の中で、謀判人跡の所領には新たに地頭が任命され、幕府の支配領域は広がった。
その一方で、貴族や寺社の荘園に守護使が乱入することを禁じ、先例を超えた税を取る地頭や領主への年貢を未進する地頭を許さないなど、幕府は貴族や寺社の権利を尊重する対応に努めた。久我家文書の中の執権北条義時や、六波羅蜜探題北条泰時の発給文書からは、そうした幕府の姿勢が読み取れる。
久我(こが)家文書;
旧華族の久我家に伝来した平安末期から明治初期までの文書約2,800点を差します。
重文「関東下知状」久我家文書 承久3(1221)年8月24日
國學院大學デジタルミュージアム「関東下知状」
終章 中世史研究と八代国治
八代国治(1873~1924)は、大正時代を代表する日本中世史研究者で、國學院大學教授でもあった。
業績紹介と著書の展示です。
ーHPの解説ー
平治の乱(一一五九年)ののち、伊豆国に流されていた源頼朝は反平家の兵を挙げ(一一八〇年)、やがて鎌倉に武士の政権を打ち立てました。この政権は鎌倉幕府と呼ばれています。三代将軍実朝の時代からは外戚の北条氏が主導する執権政治が行われました。承久の乱(一二二一年)で北条義時を倒そうとした後鳥羽上皇に勝利すると、幕府の支配は西国にも広がりました。 しかし、本来、幕府は朝廷と対立する存在でありませんでした。承久の乱後も、上皇を頂点とする国家のなかで、朝廷を武力で守り、経済力で支える役割を果たしつづけ、貴族たちの権利を尊重しました。 本展では、反平家勢力の庇護者であった鳥羽天皇皇女八条院周辺の文書史料、久我家文書の源頼朝・北条義時・北条泰時発給文書、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』に題材を取った奈良絵本『あさいな』など、初公開を含む本学所蔵資料から、頼朝や義時の時代をみていきます。
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