トーハク 特集展示 木挽町狩野家の記録と学習
木挽町狩野家の記録と学習は、
東京国立博物館本館 特別1室・特別2室で開催されています。
会期 2021年2月9日(火) ~ 2021年3月21日(日)
トーハクならではの、派手さはないものの大変興味深い展示です。
室町時代中期から明治時代初期まで続いた、日本の絵画のもっとも代表的な流派の一つ狩野派・・・・
その狩野派の木挽町狩野派にスポットを当てた特集展示です。
京都を中心に活動していた狩野派でしたが、元和三年(1617)、探幽が江戸幕府に召され、その後、弟の尚信と安信も召喚されたのを機に、活躍の場を江戸へと移します 。 三人は幕府の画事を担う御用絵師に任ぜられ、旗本に匹敵する奥絵師の身分を与えられました。 このうち、尚信に連なるのが木挽町狩野家です。(本展パンフレットから、以下も同じ)
木挽町狩野派の系図
(以下の画像はクリックすると拡大表示になります)
四季山水図巻(山水長巻)(摸本)
原本は雪舟の代表作で16mを超える長大な作品。
吉宗は、所有者の萩毛利家に命じて享保10年(1725)「山水長巻」を江戸へ運ばせ、熟覧します。
その際、古信に模写させたのが本図です。
幕命による作画活動のほかに、奥絵師の重要だったのは教育と鑑定です。絵師集団木挽町狩野家の屋敷には門人育成のための画所が設けられ、そこでは模写を通じた画技習得プログラムが組まれました。
木挽町狩野派での門人教育
また、将軍や大名が所有したり贈答に用いたりする名画には絵師の鑑定書である添状が不可欠でした。
鑑定を円滑に行うためには自分の中に鑑定の物差しをもっておくことが重要です。そこで大きな役割を果たしたのも模写です。
(左)常信模写 (右)探幽模写
梁楷筆「鷺図」(静岡・MOA美術館蔵)を模写したもの。
羅漢図 右から第七尊者、第十三尊者、第十二尊者(いずれも摸本)
(左)魚籃観音図 (右)傅説図(摸本)
当時、絵の主たる発注者であった幕府や大名家は常に前例を重んじていたため、絵師自身の独創性を発揮できる場は限られていました。
最後の章では、それでも新たな主題(新図)にに取り組む絵師たちの様子と、それらを支えた記録やスケッチを紹介しています。
長篠合戦図屏風下絵
雑画 第一帖
榮信や養信が描きためたスケッチを張り込んだもの。
公用扣(こうようひかえ)
安永5年(1776)から文政5年(1822)までの木挽町狩野派の御用を記した記録。
展覧会の構成は次の通りです。
第一章 木挽町狩野家のはじまりと奥絵師の御用
第二章 鑑定と模写
第三章 記録から創造へ
―HPの解説ー
狩野派は室町時代中期から明治時代初期まで続いた、日本の絵画の最も代表的な流派の一つです。江戸幕府の御用絵師のなかでも、将軍への直じきのお目見えがかなう、旗本にも匹敵する身分を「奥絵師(おくえし)」といいますが、その筆頭を務め、画壇の中心的な役割を担ったのが木挽町狩野家です。
歴代当主は、江戸城内の障壁画や贈答用絵画の制作、古画の鑑定、将軍家の子女への絵画教育などに加え、屋敷内に「画所」を設け、全国から5、60人もの弟子たちを集め教育するなど、画壇において絶大な権威を誇りました。またその立場を最大限利用して、全国の大名や社寺が所有する古画・名画を取り寄せ、模写に励み、膨大な絵画情報を集積していたことが知られています。
当館にはこの木挽町狩野家に伝来した5000件近い模本や下絵が収蔵されています。中には、既に原本が失われてしまった貴重な模本のほか、鑑定の際の所感を記したメモや、生き生きとした自由な筆線が残されていて、当時の絵師の息遣いを知ることのできる絶好の資料となっています。本特集では、この膨大な木挽町狩野家伝来資料の一部を「記録と学習」というキーワードからご紹介いたします。本画とは異なる、模本や下絵ならではの魅力を発見いただければ幸いです。
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