カワセミが描かれた明時代(16世紀)の絵画が展示されていました。 トーハク2021年3月
トーハク東洋館4階の中国の書画展示室は、トーハクを訪れる毎に必ず観に行きます。
素晴らしい作品に出会えます。
東洋館8室で、
特集「宮廷から地方へ―明時代の絵画と書跡」を観てきました。
会期 2021年3月2日(火) ~ 2021年4月11日(日)
展示作品の中にカワセミが描かれた作品を見つけました。
(以下の画像はクリックで拡大表示になります)
白鷺芙蓉図軸 簫増筆 絹本着色 明時代・16世紀
芙蓉は栄華の象徴、
白鷺は高級官僚の寓意、
では、カワセミは何の象徴なのでしょうか?
ちょっと調べましたが、答えは見つかりませんでした。
そもそも「カワセミという名称の由来」は?
Wikipediaからです。
カワセミは「川に棲むセミ」の意で、この「セミ」は古名の「ソニ」が「ソビ」に変化し、それが転じて「セミ」となった。その「ソニ」の「ニ」は土の意味で、ソニ(青土)からきた。また、近縁の「アカショウビン」などのショウビンもこの「ソニ」から来た。 これらとは別に、室町時代から漢名を取り入れ、「ヒスイ(翡翠)」とも呼ばれるようになった。
参考までに、古代日本では玉は「たま」、カワセミは「そび」「そにとり」と呼ばれていた。カワセミに「翡翠」の字があてられ「ヒスイ」とも呼ばれ始めたのは室町時代以降である。したがって「翡翠」の語は中国から輸入されたと推察できる。
「翡翠」は中国では元々カワセミを指す言葉であったが、時代が下ると翡翠が宝石の玉も指すようになった。その経緯は分かっていないが以下の説がある。翡翠のうち白地に緑色と緋色が混じる石はとりわけ美しく、カワセミの羽の色に例えられ翡翠玉と名づけられたという。この「翡翠玉」がいつしか「玉」全体をさす名前になったのではないかと考えられている。
ギリシャ神話にも登場するようです。
「ギリシア神話には、一国の国王でもあった夫ケーユクスを海難事故で失った女性アルキュオネーが、死んだ夫と共に姿をカワセミへと変え、2羽でつがいを組んでその後も仲良く暮らし続けたという話が存在する」
昨年、運よくカワセミの求愛給餌の場面を撮ることができました。
(拙ブログで去年紹介した写真の再掲です)
めでたく成就したかはもちろん不明ですが・・・
右の嘴が赤いカワセミが雌です。
以下は本展の展示作品と展示風景です。
四季花鳥図軸 呂紀筆 絹本着色 明時代・15~16世紀
獅子図軸 周全筆 絹本着色 明時代・15世紀
展示風景
―HPの解説ー
明時代(1368~1644)の宮廷画壇は、特に15世紀から16世紀はじめにかけて繁栄を誇りました。はじめは南京に、のち、三代永楽(えいらく)帝により北京に移された宮廷には、浙江(せっこう)・福建(ふっけん)地域出身の画家が多く採用されています。これらの地域には、宋時代(960~1279)の文化の遺風が色濃くのこっていたようです。宮廷画家たちは、宋時代をはじめとする古画をよく学び、花鳥、走獣、人物、山水など多彩な主題を描いていきました。
宮廷画風は在野にも広がっていき、15世紀後期ころから、宮廷に所属しない画家の活動も目立つようになります。中でも注目すべきは、筆と墨による表現の展開です。宮廷において、雄渾さ、闊達さを強調する方向に発展してきた筆墨の表現は、各地に拡大する過程でさらに激しく狂騒的になっていきます。蘇州(そしゅう)を中心とした一部の江南文人たちは、この粗放な画風を嫌い、正道からはずれた「狂態邪学(きょうたいじゃがく)」であるとの批判を繰り返しました。また、職業画家を蔑視する価値観が浸透する中で、宮廷絵画の系譜も、「浙派(せっぱ)」、つまり浙江の職業画家に由来する一地方様式にすぎないと低く評価されるようになります。しかし、現在はその力強い筆墨表現が見直されています。
本展では、宮廷絵画とそこから発展した浙派、狂態邪学派の名品を、江南文人書跡とともに紹介します。
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