生誕120年・没後100年 関根正二展
生誕120年・没後100年 関根正二展は、
神奈川県立近代美術館 鎌倉別館で開催されています。
会期 2020年2月1日〜 2020年3月22日
前期 2月1日~16日 後期2月18日~3月22日
会期中展示替えがあります。
「関根のバーミリオン」と讃えられた夭折の画家関根正二の回顧展です。
関根は1899(明治32年)福島県白河で、四男五女の次男として生まれました。
天保の飢饉以来といわれる大凶作に見舞われた関根一家は東京への移住を決め、
1907年(明治40年)に江東深川の棟割長屋に住むことになります。(正二は一年遅れで上京、9歳になっていました)
1914(大正3年)関根は15歳。
共に貧しい生活だった幼馴染の伊藤深水の紹介で東京印刷図案部で働くことになります。
(深水は小学校3年で中退し東京印刷で印刷工として働き、後に図案部に所属する)
伊藤深水に出合って話すうちに「私は興奮のあまり芸術に身を投ずる気になった」という。
1915(大正4年)ニーチェ、クリムト、オスカー・ワイルドなどを知り、刺激を受けた関根は、オスカー・ワイルドかぶれのデカダン的な行動をとるようになり、東京印刷を退社し無銭旅行にでかけました。
この旅行で河野満通勢と出会います。
河野のもとで、ダビンチ、ミケランジェロ、デューラーのルネッサンスの画家、新印象派の画家を知って衝撃を受けるとともに、河野の素描に圧倒されます。河野は、美術教師で敬虔なクリスチャンでした。
1914年に二科展が始まると、第2回二科展に《死を思う日》を出品し入選します。
本格的な画壇デビューです。
《死を思う日》1915(大正4)年 油彩、カンヴァス 福島県立美術館蔵
表裏に描かれた作品
表《大樹(子供と木登り)》
裏《裸婦》1915(大正4)年 福島県立美術館蔵
この二科展に出品された欧州帰りの安井曾太郎の作品に、セザンヌを知り衝撃を受けます。
色彩と造形思考に・・・・
関根は、借金までして本郷洋画研究所に通うことにします。
《少年》1917(大正6)年 油彩、カンヴァス 個人蔵
1918(大正7)年、第5回二科展で《信仰の悲しみ》《姉弟》《自画像》が二科展の新人賞にあたる樗牛賞を受賞します。
この年、結核の症状が現れ、関根の作品は死期を悟ったような作品へと変化していく。
そして年末には病の床に着きます。
重要文化財《信仰の悲しみ》1918(大正7)年 油彩、カンヴァス 大原美術館蔵
関根の最も大きな作品。730×100
《姉弟》1918(大正7)年 油彩、カンヴァス 福島県立美術館蔵
《自画像》1918(大正7)年 油彩、カンヴァス 福島県立美術館蔵
《神の祈り》1918(大正7)年 油彩、カンヴァス 福島県立美術館蔵
《チューリップ》1918(大正7)年 油彩、カンヴァス 個人蔵
《子供》1918(大正7)年 油彩、カンヴァス 個人蔵
《一本杉の風景》1918(大正7) 油彩、カンヴァス 福島県立美術館蔵
1919(大正8)年6月スペイン風邪により体調は急激に悪化し20年と2か月の生涯(画家として5年)を終えました。
9月の第6回二科展に《慰められつゝなやむ》が展示され、ほぼ同時期に神田で遺作展覧会が開催されました。
《少女》1919(大正8)年 パステル 、紙 個人蔵
パステルは、病によって体力を奪われた関根が最後に多用した画材。
《三星》1919(大正8)年 油彩、カンヴァス 東京国立近代美術館蔵
東京国立近代美術館の常設展に行くと、一段と目を引くのがこの作品です。
この作品で関根正二に興味を持った人も多いのではないでしょうか。
左が姉のクラ、右が田口真咲、中央が関根。
最初は中央に女性像を描いたものの、ゴッホの自画像になぞらえた関根の自画像を上描きしている。
展覧会の構成は次の通りです。
第Ⅰ章 関根正二 作品
第Ⅱ章 関根正二 資料・書簡
第Ⅲ章 関連作家 作品・資料
関連作家資料
—HPの解説—
大正という日本近代の青春時代を駆け抜け、20歳で世を去った画家、関根正二(1899–1919)。ほぼ独学で絵を志した関根は、北方ルネサンスをはじめとする西洋絵画に感銘をうけ、天性の素描力に独自の色彩感覚を開花させました。
16歳で二科展に初入選、その後5年に満たない画業のなかで、「関根のヴァーミリオン」と称賛された美しい朱色を特徴とし、デカダンス文学や独自の宗教観に基づいた幻視性を帯びる作品群には、時代を越えてみる者に訴える、儚くも鮮烈な魂の響きが感じられます。
短い生涯に残した貴重な油彩作品に加え、このほど100年ぶりに発見されたパステル画《少女》や初公開の作品・資料類、関連作家らの紹介を交えて関根正二を顧みる、当館では20年ぶりにして過去最大規模の回顧展です。
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