河鍋暁斎 その手に描けぬものなし
「河鍋暁斎 その手に描けぬものなし」は、
サントリー美術館で開催されています。
会期 2019年2月6日(水)~3月31日(日)
会期中展示替えがあります。
暁斎の展覧会があると行ってみたくなる・・・・何故って、面白いからです。
今度はどんな面白い作品が出ているのだろうか?
この展覧会は、タイトルにあるように「あらゆるジャンルを描いた暁斎」が狩野派という矜持を持ちつずけた画家であったこと、古画を熱心に学び続けたこと、そして幅広いネットワークも持っていたこと。
暁斎のバックボーンとネットワークを通して暁斎の全体像に迫っています。説得力のある良企画展たと思いました
展示替え後期も楽しみ。
東京都美術館で開催中の「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」とあわせてみるのも面白いですね、経歴からしても・・・・
天才絵師河鍋暁斎は天保2年(1831)に生まれて、明治22年(1889年)に亡くなっています。
河鍋暁斎は数え7歳で浮世絵師・歌川国芳の画塾に入り、10歳になると駿河台狩野派の前村洞和に入門します。洞和が病気になると洞和の師である洞白陳信のもとに移ります。
9年間で修業を終えて「洞郁陳之」という画号を授かり、様々な作品を手掛けます。
時代は、明治時代への移行期です。
明治元年の暁斎は38歳。
「狂斎」と名乗り人気絵師になっていました。
明治3年、客の前で酒を飲んで描いた戯画が政府のお咎めを受け投獄されるという事件が起きます。
これを機に号を「暁斎」とあらためたといわれています。
以下にもう少し詳しく・・・・
(拙ブログの過去の記事を転載します)
暁斎は、3歳の時すでに蛙を写生しています。
7歳で国芳に弟子入りしますが、国芳の素行を心配した父親が2年でやめさせています。
9歳、神田川で生首を拾い写生。
10歳、狩野派の絵師に入門
19歳で修業を終えて師か号を与えられます。
(この年北斎没)
22歳、雑貨商、絵草子屋に寄宿したりして、土佐派、円山四条派、浮世絵など流派に拘らす研鑽を続ける。
(広重が江戸名所百景を描く)
27歳、鈴木基一の次女お清と結婚、絵師として独立。河鍋の姓を継ぐ。
28歳、狂画を描き始め、狂斎と号す。
29歳、お清没、間もなくお登勢と再婚。
30歳、お登勢没、妻の亡骸を写す。
37歳、宮家の家臣の娘・近(ちか)と結婚。
38歳、(明治元年)上野戦争の翌日、戦場に行き写生。娘とよ誕生(後の暁翠)
41歳、刑を受けて放免される。以後、画号を暁斎に改める。
51歳、ジョサイア・コンダ―が入門。
55歳、妻近(ちか)没。この年「如空」の法号を受け、以降の作品には「如空」の署名を用いる。
59歳、没。
展覧会の構成は次の通りです。
第1章 暁斎、ここにあり!
枯木寒鴉図 河鍋暁斎 一幅 明治14年(1881) 榮太樓總本鋪
展示期間:2/6~3/4
第二回勧業博覧会(明治14年)日本画部門で事実上の最高賞を得た作品。
出世作?
花鳥図 河鍋暁斎 一幅 明治14年(1881)東京国立博物館
展示期間:2/6~2/18
暁斎の観察眼恐るべし!
観世音菩薩像 河鍋暁斎 一幅 日本浮世絵博物館
展示期間:3/6~3/31
暁斎は信心深い人で、多くの作品をお寺に奉納しており、晩年はほとんど毎日観音図を描いていたと伝えられています。
第2章 狩野派絵師として
毘沙門天像 河鍋暁斎 一幅 嘉永元年(1848) 河鍋暁斎記念美術館
展示期間:2/6~3/4
狩野派門下時代18歳で描いた作品。技術の完成度の確かさが見られます。
虎図 河鍋暁斎 一面 19世紀 東京・正行院
全期間展示
風神雷神図 河鍋暁斎 二幅 株式会社 虎屋
展示期間:3/6~3/31
宴の席で即興的に描く席画で人気が高まった暁斎ですが、古画に学び暁斎風にアレンジしてじっくり描き込んだ作品も多く残しています。
第3章 古画に学ぶ
鳥獣戯画 猫又と狸 河鍋暁斎 一面 19世紀
河鍋暁斎記念美術館
展示期間:3/6~3/31
第4章 戯れを描く、戯れに描く
第5章 聖俗/美醜の境界線
閻魔・奪衣婆図 河鍋暁斎 二幅 明治12~22年(1879~89) 林原美術館
展示期間:3/6~3/31
幽霊図 河鍋暁斎 一幅 慶応4~明治3年(1868~70)頃 イスラエル・ゴールドマン・コレクション
全期間展示
妻の亡骸を写生したといわれています。
第6章 珠玉の名品
風俗鳥獣画帖のうち「骸骨と蜥蜴」 一帖 明治2~3年(1868〜70) 個人蔵
全期間展示
第7章 暁斎をめぐるネットワーク
河竹黙阿弥作『漂流奇譚西洋劇』 パリス劇場表掛りの場 河鍋暁斎 一面 GAS MUSEUM がす資料館
展示期間:2/6~3/4
野見宿禰と当麻蹶速図 河鍋暁斎 一面 明治7年(1874) 東京・湯島天満宮
全期間展示
――HPの解説――
河鍋暁斎(かわなべきょうさい・1831~89)は天保2年(1831)、下総国古河(現・茨城県古河市)に生まれました。数え2歳のときに家族とともに江戸に出て、7歳で浮世絵師・歌川国芳のもとで絵を学び始めます。その後、駿河台狩野派の前村洞和(?~1841)や、洞和の師・狩野洞白陳信(?~1851)に入門し、独立後は「狂斎」と号し、戯画などで人気を博しました。そして、明治3年(1870)40歳のとき、書画会で描いた作品が貴顕を嘲弄したなどとして投獄され、以後、号を「暁斎」と改めました。
この筆禍事件や明治政府を茶化したような風刺画によって、暁斎は「反骨の人」というイメージで語られるようになります。もちろん、38歳で明治維新を迎えた暁斎が、当時の江戸っ子たちと同様、新しい政府や急速な近代化に対して複雑な思いを抱いていたことは想像に難くありません。しかし、これらの行動の根底にあったのは政府に対する強い反発ではなく、あくまでも、慣れ親しんだ江戸文化への思慕であったと考えられます。
江戸幕府の終焉とともに狩野派は衰退していきますが、暁斎は生涯、狩野派絵師としての自負を持ち続けました。暁斎の高い絵画技術と画題に対する深い理解は、日々の修練と古画の学習を画業の基礎とした狩野派の精神に支えられたものでした。たとえば、晩年に日課として制作していた観音図や、先人たちの作品を丹念に写した縮図などからは、作品と真摯に向かい合った暁斎の姿がうかがえます。
本展では「狩野派絵師」としての活動と「古画学習」を大きな軸としながら、幕末・明治の動乱期に独自の道を切り開いた暁斎の足跡を展望します。
サントリー美術館 河鍋暁斎 その手に描けぬものなし
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