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2018.12.19

遠藤周作著 「キリシタン時代 殉教と棄教の歴史」を再読してみました。

Photo
1992年2月20日初版第一刷発行
(株)小学館

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコ世界遺産に登録されたのが今年の7月でした。
前後して、関連企画展が沢山開催されました。

最近では、トーハクで、
「世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」登録記念 キリシタンの遺品」展 が
( 本館 特別2室 2018年10月10日(水) ~ 12月2日(日))

國學院大學博物館で、
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」世界文化遺産登録記念
特別展「キリシタン―日本とキリスト教の469年―」展(2018年9月15日(土)~10月28日(日) )
が開催され、観てきました。

また、仙台博物館に行って、
仙台博物館テーマ展示室Ⅱで、
ユネスコ記憶遺産・国宝慶長遣欧使節関係資料
を見てきたりもしました。

さらに、トーハク昨年末の特集展示 
特集「親指のマリアとキリシタン遺品」
(2017年12月5日(火) ~12月25日(月) )

長崎、天草地方に行ってみたいな~、とも思っているのですが・・・・

ということで、
遠藤周作著 「キリシタン時代 殉教と棄教の歴史」を再読してみました。
かなり前に読んだ本なので、おぼろげな記憶しか残っていなかったのですが、再読してみて、あらためて切支丹関連展覧会の内容をより深く理解するうえでの最良の書物(参考書?)だと思いました。
長崎・天草地方を訪れることができる時が来たならば・・・必ず持参したい!

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目次
日本と西洋の激突
キリシタン時代―日本と西洋の激突
切支丹時代の知識人
切支丹と遺跡―長崎とその周辺
「沈黙」―踏絵が育てた想像
日記
細川ガラシャ―神だけを拠りどころに
東北の切支丹―支倉常長とペドロ岐部
トマス荒木―最初のヨーロッパ留学生の苦悩
フェレイラ(沢野忠庵)―苦悩する背教者の祈り
キャラからシドッチ―最後の潜入宣教師たち
日本の沼の中で―かくれ切支丹考

異邦人の苦悩
日本の宗教心理について
日本人の信仰について
黙示禄と現代
宗教家
異邦人の苦悩
  
解説 佐藤泰正
初出一覧

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トーハク 特集「親指のマリアとキリシタン遺品」展から
(2017年12月5日(火) ~12月25日(月) )

以下、以前拙ブログに投稿した内容と重複します。

平成2年(2014)文京区小日向の切支丹屋敷跡から発掘された人骨が、文京区、国立科学博物館、早稲田大学の調査によって、イタリア人宣教師ジョバンニ・バッティスタ・シドッチ(1667~1714)のものと確認された。新井白石(1657~1725)がまとめたシドッチ尋問記録『西洋紀聞』によると、シドッチはシチリア島パレルモ出身。キリスト教禁制下日本に潜入したところを捕らえられ、切支丹屋敷の地下牢に幽閉されたまま47歳で没した。
02

03
西洋紀聞(写本)
新井白石著
「小宮山氏之蔵書」印記
江戸時代・文政4年(1821)
徳川宗敬氏寄贈
江戸幕府高官で学者の新井白石がシドッチへの尋問をまとめた記録の写本。白石はキリスト教の教養の他、ヨーロッパの状勢、哲学、地理など幅広く尋ねている。その問答からは、文化的背景や立場の異なる二人が互いを敬う姿が浮かび上がってくる。

Photo_3
重要文化財 聖母像(親指のマリア)
17世紀後期 銅板油彩
長崎奉行所旧蔵品
新井白石が書き残したシドッチの携行品の記録に表れるマリア像。中世においてキリストの死を嘆く聖母の悲しみの色とされた、青色のマントに身を包む。17世紀のフィレンツェで活躍した宗教画家カルロ・ドルチ(1616~87)に酷似する。


宗教画家カルロ・ドルチの作品「悲しみの聖母」は、同じ上野の国立西洋美術館が所蔵していて、人気があります。
Photo_4
悲しみの聖母 1655年頃 油彩、カンヴァス 82.5 x 67(cm)
国立西洋美術館
ドルチは17世紀フィレンツェを代表する画家です。鮮やかで深みのある色彩と緻密な描写を特徴とし、冷ややかながら甘美な愁いを帯びた、独自に理想化された宗教人物(とりわけ女性)像で人気を博しました。本作の主題は、わが子キリストの運命をめぐって悲しみにくれる聖母マリアという極めて伝統的なもので、ドルチはこれを何枚も制作しています。ドルチ本人も敬虔な信仰の人で、生涯ベネディクトゥス信者会に属していました。


(展示会場のキャプションを引用しています)


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キリシタン時代 殉教と棄教の歴史
「キャラからシドッチ―最後の潜入宣教師たち」から引用。

最後の潜入宣教師
そして幕府もやっと胸をなでおろしたと見えた宝永五年(1708)の八月二十六日に一隻の大きな船が大隅の口の屋久島に突然現れた。そして、その翌日、同島の村民藤兵衛が木を伐っていると、一人の大男がうしろから声をかけた。手招きするのでそばによると言葉はわからぬが水を欲しがっているらしいので水をやって、気配をうかがった。
この大男が、日本最後の宣教師ともいうべきシドッチである。

(中略)

この上陸の状況は新井白石の「西洋紀文」に目に見えるように書いてあるが、先ほどの場面も白石によると、
この日、かの島の恋泊りという村の人、炭焼かむ料に、松下という所に行きて木を伐るに、うしろの方にして人の声したりけるを、かえり見るに、刀おびたるものの、手して招く一人あり。その言うところの言葉も聞きわかつべからず。水を乞うさまをしければ、器に水汲みてさしおく、近ずきて飲みて、また招きしかど、その人、刀を帯びたれば、恐れて近ずかず。かれもその心をさとりぬと見えて、やがて刀を鞘ながら抜きて差し出しければ、近ずくに黄金の方なる一つ取り出して与う。昨日、見えし船なる人の陸の上がりしにや、と思ひしかばその刀をも金をも取らずして磯の方に打ち出てみるに、その船も見えず。又、外に人ありとも見えず。我すむ方に立帰りて、近きほとりの村々に人はしらかして、かくと告ぐ。

(中略)

村民たちの注進で捕らえられた彼は(シドッチは)大隅から長崎に送られ、9月25日にその長崎をたち11月江戸につくとキリシタン屋敷に入れられた。

新井白石とシドッチ
宝永7年(1710)、1月22日から12月4日に至るまで3回にわたって白石はこのシドッチの尋問を行った。1月22日の午後シドッチは2人の役人に両側からささえられるようにして庭に入り、縁に座った白石や奉行に恭しく一礼をした。

その日シドッチは茶褐色の綿入れと島津家から与えられた紬を着ていたが、庭に座ると額に指で十字の印をした。白石たちがその衣服が夏物なのを哀れんで冬物のものを与えようとすると固辞して受けようとはしなかった。信者以外のものから衣服はもらえぬと言うのである。しかし、シドッチは、誠心誠意、日本布教の熱意を披瀝したが、またそのために日本人たちに面倒を引き起こしたことをわびた。シドッチのそうした真剣な態度は奉行や白石を動かしたようである。

(中略)

この日本の知識人は(新井白石)は、それまでの狭量な役人たちと違って聞くべきものは聞き、採るべきものは採り、宣教師に対する印象も改めたたところが多かったようである。彼は、キリシタン禁制を必要として、キリスト教を反儒教的だと考えたが、これを妖教とみる考えは捨てている。私は「西洋紀聞」をその意味で日本の生んだ最も美しい本の一つだと考えている。

「長助、おはる」事件
だがシドッチにとっては、波濤万里、この日本に来たのに、ただ1人も自らが信ずる信仰を伝えないで死ぬことができなかったのであろう。ここで「長助、おはる」の事件が起こったのである。
長助とおはるとは、シドッチの身の回りの世話をする召使いであった。

(中略)

いずれにしろこの夫婦が自首したのである。自分たちは昔、仕えていた南蛮伴天連から洗礼を受けていたが国禁にそむくとは知らなかった。しかし、シドッチに仕えてから、その立派さにうたれてキリシタンとなったが、法にそむく以上、どんな罰をうけてもかまわないと言うのである。奉行所ではまず夫婦を別々の牢に入れ、翌年、約束を破って布教したシドッチを獄につないだ。
シドッチはこのとき初めて、その真情をあらわし、長助、おはるの名を呼んで、「信仰を棄てるな、死を賭してでも志を変えるな」と日夜大声で叫んでいたと言う。
そして入牢すること7か月、長助もおはるも、病死し、それを追うように同じ月の10月21日の夜半シドッチも病死したのである。47歳であった。


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