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2018.07.07

「太宰治 三鷹とともに」展

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平成30年度特別展
太宰治 三鷹とともに —太宰治没後70年— は、
三鷹美術津ギャラリーで開催されています。


会期 2018年 6月16日(土)〜7月16日(月・祝)


太宰治は39年の生涯の中で、疎開期間を除いた約7年半、家族とともに三鷹に住んでいました。

戦中戦後と三鷹の町も大きく変貌し、時代感覚は、太宰治の生活、作品に大きな影響を及ぼします。
山崎富栄と共に玉川上水に身を投じたその場所も三鷹駅近くにあります。

その様な縁から三鷹市では、太宰治関連企画展を何度か開催してきました。

太宰治没後70年の今年・・・この企画では、太宰と三鷹を再検証しています。

三鷹は村から町へ変わり、中島飛行機があったために空襲の標的になり、太宰の家も空襲で半壊、疎開を余儀なくされました。疎開から戻った三鷹は、かつての、のどかな村から中央線沿線には復員兵たちであふれ、駅前は闇市で賑わう、戦後の混乱そのものの町になっていました。

結婚式での写真、家族の写真、太宰手作りの表札、使われていた家具調度、執筆原稿、先輩作家、友人、弟子への手紙、さらに自筆の軸、絵画などが展示されています。
絵は友人画家のアトリエに友人たちと訪れては素早く描いたようです。
太宰自身は、画材は一切持っていませんでした。
02
太宰治(久富君像)昭和11~12年頃/油彩・スケッチ板/佐賀大学美術館蔵

太宰治の文学はすでに60か国で翻訳され、読み継がれ・・時を経てもその魅力は衰えません。
あらためて、読み直したいと思わせてくれた展覧会です。

展覧会の構成は以下の通りです。
Ⅰ三鷹へ
一番長く住んでいたのは、三鷹下連雀の家であろう。
「十五年間」 昭和二一年」

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美知子、園子と/個人蔵

015
[新潮]/昭和15年5月
「走れメロス」初出

Ⅱ下連雀113 発 大宰治の文学交流
あの頃、僕の三鷹の小さい家に、実にたくさんの大学生が遊びに来ていた。
「未帰還の友に」昭和21年

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[新若人]/昭和19年3月/神奈川県立近代文学館蔵
[散華]初出

御元気ですか。
遠い空から御伺ひします。
無事、任地に着きました。
大いなる文学のために、死んで下さい。
自分も死にます、この戦争のために。

死んで下さい、というその三田君の一言が、私には、何とも尊く、
ありがたく、うれしくて、たまらなかったのだ。
[散華]昭和19年

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田中英光の結婚記念に送った色紙/昭和12年

Ⅲ郷里へ 津島修治の帰郷
れいの戦災をかうむり、自分ひとりならまたべつだが、五歳と二歳の子供をかかへてゐるので窮し、たうとう津軽の生家にもぐり込んで、親子四人、居候といふ身分になった。
「十五年間 」昭和二一年
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生家/昭和30年代 撮影:大竹新助

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小山初代/日本近代文学館蔵
結婚容認と引き換えに生家から絶縁された太宰を支えたのは井伏夫妻だった。

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井伏鱒二宛/昭和20年11月28日/神奈川近代文学館蔵
兄の選挙が近いこと、地主生活の終焉が近いことなど、近況を報告している。

Ⅳ再び三鷹へ
私はそれまで一年三箇月間、津軽の生家で暮し、今年の十一月の中旬に妻子を連れてまた東京に移住して来たのであるが、来てみると、ほとんどまるでニ三週間の小旅行から帰ってきたみたいの気持ちがした。
「メリイクリスマス」昭和二三年。
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自宅縁側で娘たちと 撮影:昭和23年4月
長女園子、次女里子(後の祐子)と撮った最後の写真

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三鷹の自宅 昭和30年頃  撮影:大竹新助

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[ヴィヨンの妻]原稿/昭和22年/山梨県立文学館寄託

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[斜陽]原稿/新潮社元会長佐藤俊介氏旧蔵/日本近代文学館蔵

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太田静子 個人蔵
女児誕生(太宰が治子と命名した)

Ⅴ終焉 グッド・バイ
僕は、僕という草は、この世の中の空気と陽の中に、生きにくいんです。生きて行くのに、どこか一つ欠けてゐるんです。足りないんです。いままで、生きてきたのも、これでも、精いっぱいだったのです。
「斜陽」昭和二二年
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[人間失格]/昭和23年7月 筑摩書房

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[グッド・バイ]原稿/昭和23年/日本近代文学館蔵

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当時の新聞記事(部分)/昭和23年6月14日/読売新聞刊」

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駅から少々歩いたところに三鷹市 太宰治文学サロンがあります。
こちらで、この展覧会の監修を行った東大教授安藤宏氏が太宰治ゆかりの地を紹介したビデオを見せていただけなすよ!

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HPの解説です。
太宰治(1909–1948)は妻美知子と甲府で新婚生活を営みながら、昭和14(1939)年9月1日に〈下連雀一一三〉(現三鷹市下連雀二丁目)の新築借家に転居します。家族とともに、亡くなるまで(疎開期間を除いた約7年半)をここで過ごし、その間、師友、弟子をはじめとする多くの文化人と文芸談義に花を咲かせ、研鑽を積みました。三鷹では「走れメロス」(昭和15年)、「東京八景」(昭和16年)、「斜陽」(昭和22年)、「人間失格」(昭和23年)などの珠玉の作品を発表し、自宅の書斎や、終戦後は駅前に仕事部屋を借りて代表作と言われるその多くを執筆しました。一町民として生き、一作家として書き尽くした太宰にとって〈東京市外、三鷹町〉は、あらゆるものとの距離感を保つに絶好の創作地だったと言えます。

太宰が住んだ当時の三鷹は、自宅周辺に麦畑が広がる一見穏やかな農村地帯。しかし、戦況が悪化するにつれ軍需産業の町として著しい成長を遂げた町でもありました。

本展では、激動の時代の潮流に呑込まれてゆく三鷹に身を置きながら、筆一本で人気作家に長じた太宰治の人生と、太宰治を支えた人々との交流に迫ります。

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拙ブログの関連投稿記事

曽我梅林に行ってきました。(2017年)
雄山荘跡地(建物は2009年焼失)があります。
雄山荘は昭和初期に会社社長の別荘として建てられました。
太宰治の愛人であった太田静子が戦時中にこの別荘に疎開し、静子がこの別荘で過ごした日々の日記が斜陽の元になった。太宰は1947年2月に雄山荘に来訪し滞在したそうです。
太宰との間に生まれた娘が小説家太田治子氏ですね。

ヴィヨンの妻(小説、映画(DVD))

玉川上水情死行

三鷹、太宰、玉川上水


太宰治の作品もインターネット図書館「青空文庫」で読めますよ。

kindleにダウンロードすればAmazon echoが読んでくれます

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