寛永の雅 江戸の宮廷文化と遠州・仁清・探幽
「寛永の雅 江戸の宮廷文化と遠州・仁清・探幽」は、
サントリー美術館で開催されています。
会期 2018年2月14日(水)〜4月8日(日)
「寛永の美」というタイトルから瞬間的にはイメージが湧いてきませんが・・・遠州、仁清、探幽という固有名詞からは映像が浮かんできます。
小堀遠州(1579~1647)は寛永文化を代表する茶人で、武家の教養としての「大名茶」を目指すべく様々な新機軸を打ち出し、新旧あらゆる世界の道具から選別し、その景色は後に「きれい寂(さ)び」と評されるようになりました。
瀬戸肩衝茶入 銘 飛鳥川 江戸時代 17世紀湯木美術館
遠州が生涯で最も愛した茶入。59歳以降、少なくとも70回近く使用したことが知られている。
遠州は堺でこのお茶入れを初めて見た時、新しいものを見て惹かれなかったが、晩年に伏見で見直すと、その素晴らしさに驚き、所有したという。
銘は「古今和歌集」の和歌にちなむ。
(展示品キャプションから)
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仁清といえば色絵のイメージが強いですが、実際公家が求めた御室焼は、モノトーンの作例が多い、この展覧会には、仁清のこの様な作例の作品が沢山展示されており、仁清理解が深まります。
野々村仁清は、御室仁和寺の門前に窯を開き、御室窯の活動を開始します。そして、この開窯にあたって指導者的な位置にあったのが、遠州と同じく寛永期に活躍した茶人、金森宗和です。
金森宗和の没後御室焼は色絵技法の寛政を背景に隆盛期を迎え諸大名の座敷飾りの調度として求められるようになりました。
色絵花輪違文茶碗 一口 野々村仁清 江戸時代 17世紀 サントリー美術館
口縁の外側に銀彩 の帯を廻らせ、胴の中腹に花輪違文を、その下に花入りの連弁文を色絵で表す。
色絵の花輪違文茶碗は、金森宗和の生前にすでに作られていた。
本作はそこに銀彩や連弁文が加えられており、宗和好みを継承しつつ華やかさが加えられてものと考えられる。
(展示品キャプションから)
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探幽の絵画は後水尾院に称賛されるなど、宮廷文化からも評価されるものでした。
その画風は、探幽と交流のあった小堀遠州の「きれい寂び」に通じるものとも言えるでしょう。すなわち、探幽の新様式は、武家や公家といった枠組みを越えて共有されていた、最先端の「時代の美」だったのです。
桐鳳凰図屛風 狩野探幽 六曲一双 江戸時代 17世紀 サントリー美術館
数少ない探幽の金地濃淡屏風。それまでの狩野派の絵と比べてモチーフが極めて少ない。樹木の表現も桃山時代のような構図の重心をなすものものではないなど新しい構成原理で描かれている。完成された探幽様式による本屏風は、以後の探幽派の規範となり描き継がれていった。(展示品キャプションから)
名古屋城上洛殿上段之間襖絵 高士渡橋「帝鑑図」 四面 狩野探幽 寛永11年(1634) 名古屋城総合事務所
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HPの解説です。
17世紀初め、江戸幕府が政権を確立すると戦乱の世は終わりを告げ、泰平の時代がおとずれました。時を同じくして文化面でも新たな潮流が生まれます。それが寛永年間(1624~44)を中心に開花した「寛永文化」です。寛永文化は「きれい」という言葉に象徴される瀟洒な造形を特徴とし、当時の古典復興の気運と相まって、江戸の世に「雅」な世界を出現させることとなりました。
寛永文化の中心は京都にあり、なかでも学問・諸芸に造詣の深かった後水尾院(ごみずのおいん)は、長く絶えていた儀礼や古典文芸の復興に心を尽くしたことで知られています。特に和歌は朝廷を象徴する芸能に位置づけられ、その洗練された優美さを追求する姿勢は、和歌のみならず、多くの美術作品にまで影響を及ぼすこととなりました。
一方、幕府はそうした公家衆の動向に注目し、時には意見を異としながらも、公武間の文化的な交流は盛んに行われました。京都のサロンを主な舞台としたその交流は、さまざまな階層の人々を巻き込み、公家、武家、町衆といった垣根を越えて、新しい時代にふさわしい美意識を醸成し、共有されていったのです。
本展ではこのような近世初期の「雅」を担った宮廷文化と、それと軌を一にして生まれた新時代の美意識が、小堀遠州(こぼりえんしゅう)、野々村仁清(ののむらにんせい)、狩野探幽(かのうたんゆう)などの芸術に結実していく様子をご覧いただきます。
朝儀図屛風 六曲一双 土佐光起 江戸時代 17世紀 茶道資料館
宮廷儀礼を題材として業務で右隻には「小朝拝」左隻には塑旦 冬至を描いている。後水尾院は朝議復興、本作は復興された儀礼を後世に伝えるために描かれてた見られる。土佐派の絵師は儀礼の記録係的な役割を期待され 、本作はそれに答えてみせた光起の傑作である。(展示品キャプションから)
冠形大耳付水指 修学院焼 一口 江戸時代 17世紀 滴翠美術館
水仙文橙香合 東福門院和子 江戸時代17世紀 徳川美術館
東福門院は、最後の絵を描くことのみ、意匠は千宗旦、下絵は土佐光起、塗りは関宗長とされる。
東福門院は二代将軍徳川秀忠の娘で入内。
幕府の膨大な経済援助は京都を中心とする寛永文化を開花させる要因となりました。
展覧会の構成は以下の通りです。
第1章 新時代への胎動―寛永のサロン
第2章 古典復興―後水尾院と宮廷文化
第3章 新たなる美意識Ⅰ 小堀遠州
第4章 新たなる美意識Ⅱ 金森宗和と仁清
第5章 新たなる美意識Ⅲ 狩野探幽
サントリー美術館 寛永の雅 江戸の宮廷文化と遠州・仁清・探幽
InternetMuseum
サントリー美術館 寛永の雅 江戸の宮廷文化と遠州・仁清・探幽
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