第158回芥川賞受賞作「おらおらがひとりいぐも」(若竹千佐子著)を読んでみました
第158回芥川賞受賞作「おらおらがひとりいぐも」(若竹千佐子著)を読んでみました。
ここ数年の受賞作に中で一番の秀作と思いました。
読んでから可成りの日にちが過ぎたので、上手くまとめられたか心もとないのですが、以下に気になったフレーズと共に紹介してみます。
ーーこの小説の冒頭部分です。
あいやぁ、おらの頭(あだま)このごろ、なんぼがおがしくなってきたんでねでか
どうすっぺぇ、この先ひとりで、何処(なんじょ)にすべがぁ
何処(なんじょ)にもかんじょにもしかたながっぺぇ
てしたごどねでば、なにそれぐれ
だいじょぶだ、おめには、おらがついでっから
あいやぁ、そういうおめは誰なのよ
きまってっぺだら。おらだば、おめだ。おめだら、おらだ
ーーーーーー
郊外の住宅地に住む74歳の桃子さん、既に夫は亡く二人の子供とも疎遠になりがちです。
そんな桃子の日常を語り部と内なる声で綴ります。桃子さんの内なる声は東北弁で語られています。
「おらだば、おめだ。おめだら、おらだ」
桃子さんの人物像が一層際立ちます。ーー
桃子さんは、一日中家に居て、古里のこと、子供の頃おばあちゃんに教わったこと、周造のことなどなどを考えています。雑然とした部屋の中でーーーーーーー
そして「おらだば、おめだ。おめだら、おらだ」-----
おらの心の内側で誰かがおらに話しかけてくる。東北弁で。それも一人や二人ではね。大勢の人がいる。今やその大勢の人がたの会話で成り立っている。それをおらの考えと言っていいもんだがどうだか。確かにおらの心の内側で起こっていることで、話し手もおらだし、聞き手もおらなんだが、なんだがおらは皮(がわ)だ、皮にすぎねど思ってしまう。おらという皮で囲ったあの人がたはいったい誰なんだが。 ついおめだば誰だ、と聞いてしまう。おらの心の内側にどうやって住んでんだが。あ、そだ。小腸の絨毛突起のよでねべが。んだ、おらの心のうちは密生した無数の絨毛突起で覆われてんだ。ふだんはふわりふわりとあっちゃにこっちゃに揺らいでいて、おらに何か言うときだけそこだけ肥大してもの言うイメージ。おらは困っているども 、案外やんたぐね。それでもいい、おらの心が おらに乗っ取られても。
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露寒の日が続くーーーー
疎遠になっている直美から電話が来ることになっていて、戸惑いを感じながらも、喜びが湧いてくる。
(直美は、車で20分位のところに住んでいる)
桃子さんがずっと考え続けてきたことを、今こそ娘に伝えたいと思ったのだった。
直美がなぜ離れていったのか・・・・ あの時の後悔を。
「・・・急で悪いんだけど、あの・・・お金貸してくれない」
ーーー桃子さんは咄嗟のことで躊躇したーーしばらくの沈黙が続いてーーーーー
「なによ。お兄ちゃんだったら、すぐに貸してあげるくせに」
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桃子さんは娘とのことを思うと、
古里を離れたときの母との経緯(いきさつ)を思い出す。
(結婚を促されるなどのことあって ・・・)
兄さんが継ぐ兄さんのためということか?
ずっとあそこにいるのはもう嫌だ。母ちゃんの目の届かないところで何もかも新しく始めたい。
東京オリンピックの年だった。
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だいたい、いつからいつまで親なんだか、子なんだか、親子といえば手を繋ぐ親子を想像するけれど、ほんとうは子が成人してからの方がずっと長い。かつての親は末っ子が成人する頃には亡くなってしまったそうだけど、今の親は自分の老いどころか子の老いまで見届ける。そんなに長いんだったら、 いつまでも親だの子だのにこだわらない。ある一時期を共に過ごして、やがて右と左に別れていく。それでいいんだと思う。それでもちゃんと覚えているのだ、大事だということを。
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八月の終わり、桃子さんは町唯一の総合病院に出向いた。
診察を終え、会計を済ませたのは昼過ぎだった。
何時もの喫茶店の窓際に座って、古里を出た後の都会での生活、周造との出会い、職場での友人との思い出・・・故郷への思い、周造との生活そして死別、様々な出来事が脳裏に浮かんでくる。
桃子さんはとことん突き詰めて思考するタイプの人間であることを自認している。
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二人の間に流れた歳月。
周造とおらは似ている。周造を愛することはおらお愛することと同じ、何も変わらない、そう思っていた。
周造は父で、兄で弟で、ときには息子であったかもしれない。
どんなに近しくてもやはり自分ではない、他者である。そう気づくには十分な月日が流れたのだ。周造が変わったのではない、桃子さんが変わった。桃子さんは自分のために生きたいと願うようになった。桃子さんをどんなに責めさいなむ声が聞こえても、もう引き返せないし、周造、おらはやっぱり引き返さない。
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朝の涼しさが増してきた。夜通し声の限りに鳴く虫の音もさすがに今はおぼつかない。
桃子さんはあふれる笑顔で階段を下りて、身支度を整えた。
亭主が眠る市営霊園に行くことにしている。
バスで楽して行くこともできるが、桃子さんは手弁当で、手前の脚で行くことにこだわってている。
道すがら、歩き疲れて、落ち葉の上にべったり座って、記憶をたどりーーーー
躓いてしまい、激痛の中で墓地に辿り着くだろうかと思いながらーーー
思いつくままに思考を続けます。
もういままでの自分では信用できない。おらの思ってもみながった世界がある、そこざ、いってみて。おら、いぐも。おらおらで、ひとりいぐも。
亭主が亡くなってからというもの、現実は以前ほどの意味を持たなくなった。こうあるべき、こうせねば、生きる上で桃子さんを支えていた規範は案外どうでもいいものに思えてきた。現実の常識だの約束事は亭主がいて守るべき世界があってはじめて通用する。
子供も育て上げたし、亭主も見送ったし。もう桃子さんが世間から必要とされる役割は全て終えた。きれいさっぱり用済みの人間であるのだ。亭主の死と同時に桃子さんはこの世界との関わりも立たれた気がして、もう自分は何の生産性もない、いてもいなくてもいい存在、であるならこちらからだって生きている上での規範がすっぽ抜けたっていい、桃子さんの考える桃子さんのしきたりでいい。おらはおらに従う。どう考えてももう今までの自分ではいられない。誰にも言わない、だから誰も気づいていないけれど、世間だの世間の常識だのに啖呵を切って、尻ぱっしょりをして遠ざかっていたいとあの時から思うようになった。
桃子さんという人は人一倍愛を乞う人間だった。およそ家庭的な愛に恵まれていたのになおもっともっと。人を喜ばせたいという気持ちも強かった。そのために人が自分に何を要求しているかに敏感だった。その要求に合わせていかようにも自分を作っていけるような気がした。やさしさ、従順、協調性。いつでもどうぞ。いつか桃子さんは人の期待を生きるようになっていた。結果としてこうあるべき、という外枠に寸分も違わずに生きてしまったような気がする。それに抗うほど尖ってもいなかったし、主張するほどの強い自分もなかったのだ。
気がつくために費やされた時間が、すなわち桃子さんの生きた時間だった。あいやぁ、という他はない。
墓所についてちらりと横を見ると赤いものが目の端に飛び込んできた。枯れて半分ひしゃげたカラスウリが一つ。
たちどころに桃子さんは分かったのである。あの笑いの意味。ひっきりなしにこみあげる笑いの意味。
ただ待つだけでながった。赤に感応する、おらである。まだ戦える。おらはこれがらの人だ。こみあげる笑いはこみあげる意欲だ。まだ、終わっていない。桃子さんはそう思ってまた笑った
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十二月になった。
このあたりの木々もやっと、紅葉し始めた。
桃子さんは食欲も旺盛で元気だ。
老いについて考えている。
暮れも押し詰まったころ、桃子さんは久しぶりで古里の八角山の夢を見た。
「いったい八角山はおらにとってなんだべか」
それは常に桃子さんの傍らの問だった。
今までにあったことが、全て八角山とどこかでで繋がっていた。
ーーーー
明日は立春という晩、桃子さんはわずかばかりの豆を用意した。
おらはちゃんとに生ぎだべか
おらは後悔はしてねのす。見るだけ眺めるだけの人生に
それもおもしぇがった。おらに似合いの生き方だった
んでも、なしてだろう。こご至って
おらは人とつながりがりたい、たわいない話がしたい。ほんとうの話もしたい
ああそうが、おらは、人恋しいのか
話し相手は生きている人に限らない。大見得を切っていだくせに
またこの国に災厄が迫っている気がするも、どうしてもするも
伝えねばわがね、それでもほんとにおらが引き受けたおらの人生が完結するのでねべか
んだともおら、南京豆に爪を立てるほどの
桃子さんはわっと泣き出した。あれほど嫌った涙を今度はぬぐいもせずただ泣きに泣いた。涙と鼻水と、こなれた南京豆の混じったよだれでぐしゃぐしゃになりながら、赤子のように桃子さんは泣いた。
ーーーー
三月三日の昼下がり、だいぶ春めいてきた。
桃子さんは懐かしい人形を部屋の片隅に飾って・・・
聴こえてきたばっちゃまの声に、小さな声で呟いていると・・・
「おばーちゃん、だれと話しているの」
背後の声に驚いて振り返れは
「あいやぁ、さやちゃん。どうしたの。えっ、ひとりで来たのが」
「バスで来たの」
「お母さんは知っているのが」
矢継ぎ早に聞く桃子さんに
「だいじょうぶだよ四月から三年生だよ一人で来れるもん」
ーーー
「おばあちゃん、窓を開けるね」
「あ」
「おばあちゃん来て来てて早く」
「はあい」
桃子さんは笑ったままゆっくりと立ち上がった。
「今行くがら待ってでけで」
「春の匂いだよ。早くってば」
このエンディングは暖かいですね。
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