円覚寺 建長寺 宝物風入れ
日程:平成29年11月3日(金・祝)~5日(日)の3日間
数年前にも行っていますが・・・・快晴に誘われて行ってきました。
三連休の中日とあって、鎌倉駅周辺は大混雑、北鎌はそれほどでもありませんでした。
工芸品、絵画作品は勿論素晴らしいのですが、古文書(書状など)は歴史的、社会的背景を詳らかに表していて興味深く見てきました。勿論解説のみでの理解ですが・・・古文書解読もっと勉強しないと!
多くの展示品が重要文化財指定です。
円覚寺宝物風入れ
以下に展示品の一部を記します。
第一展示場(大方丈)
■工芸類
椿梅竹文堆朱盤 南宋~元時代
■法衣類(毎年一部を展示)
■袱紗類(毎年一部を展示)
■その他の宝物
五百羅漢図 絹本着色 元時代・室町時代・江戸時代
DNPによる複製も展示されていました。
仏涅槃図 絹本着色 鎌倉時代
被帽地蔵菩薩 絹本着色 高麗時代
被帽地蔵菩薩ってあまり見ないですよね。
北条時宗書状(拝請状)円覚寺文書のうち
弘安元年(1278)12月23日
建長寺開山の蘭渓道隆が亡くなった後、執権・北条時宗(円覚寺開基)は新しい禅の指導者を中国に求めました。このときの依頼状です。これに応じて来日したのが円覚寺開山の無学祖元です。
養儼院手箱(梨地螺鈿海獣蒔絵手箱) 江戸時代
徳川家康の側室・養儼院(お六の方)が円覚寺に奉納した手箱
百衣観音図 伝牧谿筆 絹本墨画 元時代
観音が岩上で片肘をつきながら水面に映る月を眺めている姿から水月観音ともいわれています。
第二展示場(大書院 呈茶室)
無学祖元像・・・自賛 絹本着色 弘安7年(1284)
無学祖元(仏光国師1226~85)は円覚寺開山です。
北条時宗の招請により来日しました。
虚空蔵菩薩像 絹本着色 鎌倉時代
銅造阿弥陀如来及び両脇地蔵 文永8年(1271)
長野・善光寺の本尊を模した、いわゆる善光寺式阿弥陀三尊像
第二展示場(大書院)
足利義満額草 円覚寺文書のうち 室町時代
室町幕府三代将軍・足利義満の筆になる、円覚寺正続院殿堂の額字
鍾馗像 山田道安筆 絹本墨画淡彩 室町時代
山田道安は戦国時代の武将です。
臨済宗大本山 円覚寺
開山
鎌倉時代後半の弘安5年(1282)、ときの執権北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により、円覚寺は開山されました。開基である時宗公は18歳で執権職につき、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依されていました。国家の鎮護、禅を弘めたいという願い、そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うため、円覚寺の建立を発願されました。
名前の由来
円覚寺の寺名の由来は、建立の際、大乗経典の「円覚経えんがくきょう」が出土したことからといわれます。また山号である「瑞鹿山ずいろくさん(めでたい鹿のおやま)」は、仏殿開堂落慶の折、開山・無学祖元禅師の法話を聞こうとして白鹿が集まったという逸話からつけられたといわれます。無学祖元禅師の法灯は高峰顕日こうほうけんにち禅師、夢窓疎石むそうそせき禅師と受け継がれ、その法脈は室町時代に日本の禅の中心的存在となり、 五山文学や室町文化に大きな影響を与えました。
歴史
円覚寺は創建以来、北条氏をはじめ朝廷や幕府からの篤い帰依を受け、寺領の寄進などにより経済的基盤を整え、鎌倉時代末期には伽藍が整備されました。 室町時代から江戸時代にかけて、いくたびかの火災に遭い、衰微したこともありましたが、江戸時代後期(天明年間)に大用国師だいゆうこくしが僧堂・山門等の伽藍を復興され、宗風の刷新を図り今日の円覚寺の基礎を築かれました。 明治時代以降、今北洪川いまきたこうせん老師・釈宗演しゃくそうえん老師の師弟のもとに雲水や居士が参集し、多くの人材を輩出しました。今日の静寂な伽藍は、創建以来の七堂伽藍の形式を伝えており、現在もさまざまな坐禅会が行われています。
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建長寺の宝物風入れ
円覚寺の展示と比べると少々見劣りする感じはしますが・・・・もちろん一見の価値ありです。
画像が手元にないので残念ですが、「沢庵 宗彭墨蹟」「一休禅師墨蹟」「賢江祥啓筆 三十三観音図」「狩野探幽筆 達磨図、維摩像・達磨図、十六善神図」「伝牧谿筆 猿猴図」などが印象に残りました。
「伝狩野元信筆 花鳥図」の展示もありましたが退色が著しく、残念でした。
「蘭渓道隆像・・・自賛」「大覚禅師法語規則」は国宝に指定されています。
話はそれますが・・・・
花見(桜)は建長寺の勝ちかも知れませんね。
去年撮った動画です。
紅葉はいい勝負かなぁ~
円覚寺かなぁ~
両寺とも、この日の色づきは?まだまだでしたよ!
大本山 巨福山 建長寺
開 山
開山大覚禅師は中国西蜀淅江省に生まれた。名は道隆、蘭渓と号した。
十三歳のとき中国中央部にある成都大慈寺に入って出家、修行のため 諸々を遊学した。のちに陽山にいたり、臨済宗松源派の無明惠性禅師について嗣法した。そのころ中国に修行に来ていた月翁智鏡と出会い、日本の事情を聞いて からは日本に渡る志を強くしたという。禅師は淳祐六年(1246)筑前博多に着き、一旦同地の円覚寺にとどまり、翌宝治元年に知友智鏡をたよって泉涌寺来 迎院に入った。智鏡は旧仏教で固められている京都では禅師の活躍の場が少ないと考えたのであろう、鎌倉へ下向するよう勧めた。こうして禅師は鎌倉の地を踏 むことになった。日本に来てから三年後のことと思われる。時に三十六歳。
鎌倉に来た禅師はまず、寿福寺におもむき大歇禅師に参じた。これを知った執権北条時頼は禅師の居を大船常楽寺にうつし、軍務の暇を見ては禅師の元を訪れ道を問うのだった。そして、「常楽寺有一百来僧」というように多くの僧侶が禅師のもとに参じるようになる。
そして時頼は建長五年 (1253)禅師を請して開山説法を乞うた。開堂説法には関東の学徒が多く集まり佇聴したという。こうして、純粋な禅宗をもとに大禅院がかまえられたが、 その功績は主として大覚禅師に負っているといえる。入寺した禅師は、禅林としてのきびしい規式をもうけ、作法を厳重にして門弟をいましめた。開山みずから 書いた規則(法語規則)はいまも国宝としてのこっている。 禅師は鎌倉に十三年いて、弘長二年(1262)京都建仁寺にうつり、その後また鎌倉に戻ったが 叡山僧徒の反抗にあって二回にわたり甲斐に配流されたりした。
禅師はのち弘安元年(1278)四月、建長寺に再住、そして七月二十四日、衆に偈を示して示寂した。ときに六十六歳。
偈 用翳晴術 三十余年 打翻筋斗 地転天旋
後世におくり名された大覚禅師の号は、わが国で最初の禅師号である。
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