没後40年 幻の画家 不染鉄展
暮らしを愛し、世界(コスモス)を描いた
没後40年 幻の画家 不染鉄展は、
東京ステーションギャラリーで開催されています。
会期 2017年7月1日(土)~8月27日(日)
若く不遇のときを回想して不染鉄は次の様に記しています。
「(略)お金もなくなり自信もなく、人の画を見てとてもあんなにはかけない。夜なぞ一人になると心細くさびしくなる。とても一人前の画家になれる気がしない。どーうせだめなら此の心持ちを淋しいのを心細いのを涙が出そうなのを画にかいてやろう。きれいでなくても小さくても。立派でなくても。淋しいいんだから淋しい。一人で眺める画をかこうと思った。淋しい、心細い、なきそうになる。静かな。心の画をかこうと思ふ。野心作だの大努力作よりも小さい眞実を書こう。」
「野心作だの大努力作よりも小さい眞実を書こう。」
この思いは不染鉄の作品全般に通底しているようです。
行き詰った不染鉄は20代前半、伊豆大島に旅行しますが、三年間にわたり、ここで漁師のまね事をしながら絵を描くことになります。
その後京都に移り、京都市立絵画専門学校を首席で卒業。
学生時代から度々帝展に入選を重ねました。
京都時代に、中国絵画や一遍上人絵伝の模写などを行っています。
作品「思い出の記(田圃)」などに結実します。
京都から奈良へ、さらに神奈川へ移り済んだ不染鉄は、戦前の不穏な社会状況の中、中央画壇から遠ざかっていきます。この時期に、画材が手に入らないこともあってか、山水画(水墨画)を描いています。
戦後は、奈良で中学、高校で校長などを務め教育者としても活躍し、政治家も志しますが・・・
生涯仮住まいで過ごした不染鉄は、妻の死後、奈良に小さなあばら家を建てて住まい兼画室とし、訪れる近くの大学の学生たちの良き相談役となっていたそうです。
この地の美術団体、工芸協会とも交流し、纏わる作品も本展に展示されたいます。
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俯瞰する風景にリズミカルに建ち並ぶ古民家、日本の原風景のような作品。
俯瞰と接近の相まった視点、海間に描かれた魚、ユーモア・・・おとぎの国のような、箱庭のような・・・
薬師寺東塔など奈良の寺を描いた作品。
富士山の威容と街並みの対比。
寂寥感、懐かしさ、ユーモア、意外性・・・不染鉄の作品の楽しさです。
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展覧会の構成は以下の通りです。
第1章 郷愁の家
暮色有情 大正期頃 個人蔵
秋色山村 昭和初期頃 奈良県立美術館蔵
第2章 憧憬の山水
冬 昭和初期頃 星野画廊蔵
第3章 聖なる塔・富士
薬師寺東塔の図 昭和45(1970)年頃 個人蔵
不二之図 昭和初期頃 個人蔵
山海図絵 大正14(1925)年 第6回帝展
公益財団法人 木下美術館蔵
第4章 孤高の海
思い出の伊豆大島岡田村
昭和30(1955)年頃 星野画廊蔵
廃船 昭和44(1969)年頃 京都国立近代美術館蔵
第5章 回想の風景
古い自転車 昭和43(1968)年 個人蔵
HPの解説。
不染鉄(ふせん てつ)を、ご存じですか。
不染鉄(本名哲治、のち哲爾。鐵二とも号する)は、稀有な経歴の日本画家です。日本画を学んでいたのが、写生旅行先の伊豆大島・式根島で、なぜか漁師暮らしを始めたかと思うと、今度は京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学。才能を高く評価されながら、戦後は画壇を離れ、晩年まで飄々と作画を続けました。これまで美術館で開かれた回顧展は、21年前の唯一回だけ。画業の多くは、謎に包まれてきました。
その作品も、一風変わっています。富士山や海といった日本画としては、ありふれた画題を描きながら、不染ならではの画力と何ものにもとらわれない精神によって表現された作品は、他のどの画家の絵とも異なり、鳥瞰図と細密画の要素をあわせ持った独創的な世界を作り上げています。不染は「芸術はすべて心である。芸術修行とは心をみがく事である」とし、潔白な心の持ち主にこそ、美しい絵が描けると信じて、ひたすら己の求める絵に向きあい続けました。
東京初公開となる本展では、代表作や新たに発見された作品を中心に、絵はがき、焼物など約120点を展示し、日本画家としての足跡を、改めて検証するとともに、知られざる不染鉄作品の魅力を探ります。
不染鉄展 第1章「郷愁の家」、第2章「憧憬の山水」
InternetMuseum
不染鉄展 第3章「聖なる塔・富士」
InternetMuseum
不染鉄展 第4章「孤高の海」、第5章「回想の風景」
InternetMuseum
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