生誕140年 吉田博展 山と水の風景
生誕140年 吉田博展 山と水の風景は、
東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館で開催されています。
会期 2017年7月8日(土)~8月27日(日)
千葉市美術館に始まり、各地の美術館を巡回してようやく新宿にやってきました。
多くのメディアで取り上げられてきた評判の展覧会です。
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旧久留米藩士の次男として生まれた吉田博(1876‐1950)は、若くして福岡から、京都そして東京の画塾不同舎へと移ります。
不同舎時代の吉田は「絵の鬼」といわれたほど研鑽を重ねました。
同時期、フランスから凱旋帰国した黒田清輝、久米桂一郎らは、熱狂的な歓迎を受け、新しい仲間も加えて「白馬会」を創設すます。
吉田が所属した不同舎は「旧派と呼ばれ」ようになります。
新設された東京美術学校の西洋画家では、黒田、久米等が教授となり、その門下生がフランス留学生に選ばれることになり、吉田らは「留学は絶望」と感じるようになります。
吉田は意を決して、片道切符とわずかな資金を手にアメリカに出発します(親友の中川八郎と二人で)。
ここで幸運が訪れます。
デトロイトに到着後、東京で知り合った東洋美術収集家のチャールズ・フリーア氏を訪ねるも出張中で不在。
恐る恐るデトロイト美術館を訪れ、彼らの作品を見せると、グリフィス館長はその作品の素晴らしさに驚き、直ちに展覧会の開催を申し入れてくれました。
展覧会は大成功のうちに終わり、後のデトロイト開催も含めて莫大な資金を手にします。
その資金を基に二人は最終目的地のヨーロッパに向かいます。
ロンドン、パリ、ドイツ、スイスを廻り、展覧会開催の為一時アメリカに戻ってから・・1年9か月ぶりに帰国します。
帰国した吉田は、白馬会に対抗すべく仲間たちと太平洋画会を結成します。
第1回太平洋画会展を開催、翌年第2回を開催したその年に、16歳になったばかりの義妹ふじ(後の妻)を伴って2回目の渡米をはたします。
ヨーロッパにも移動、長期にわたって滞在し、沢山のスケッチを行っています。
4年間の海外滞在から帰国した吉田は、帰国早々、東京府勧業博覧会の運営、選考過程を巡っての白馬会との確執で大騒動となり、黒田清輝を殴った男と噂されます。
東京美術学校とその出身者への宣戦布告でした。
ふじと東京に居を構えた博は第1回文展で水彩画が入賞、その後も入賞を重ね、やがて文展の審査員も務めるようになり若くして日本洋画界に一方の雄として地位を固めていきます。
第6回太平洋画会には博とふじ夫婦の滞欧米作品の大量展示が評判になり。
夏目漱石の小説「三四郎」にも登場します。(本展に詳しい解説あり)
博の後半生は、木版画の制作を抜きにしては語れません。
切っ掛けは、粗悪な浮世絵が高値で取引されていることが恥ずかしいと感じたから。日本人ならではの新しい木版画を自らの手で作らなければならないと強く思ったからです。
50歳を前にして、吉田博は本格的に版画作品に取り組みます。夏は日本アルプスなどへの登山や日本各地へのスケッチ旅行で木版画のための題材の仕込み、秋の終わりから春までの時期に木版画創作に打ち込むという生活パターンが出来上がっていきます。
ダイアナ妃の執務室や精神医学者フロイトの書斎にも飾られていたといわれる吉田博の木版画は、世界中に愛好家を魅了し続けています。
大版といわれる大作版画に取り組み・・・・。
平均30回以上重ねるという他に類を見ない摺数の多さで木版画とは思えないような精緻な写実性を生み出します。
日本アルプス十二題 劔山の朝 大正15(1926)年 木版、紙 個人蔵
また、同じ版木による色替え摺り技法で光、空間の変化を見事に描き分けています。
帆船 朝日 渡邊版 大正10(1921)年 木版、紙 東京国立近代美術館/個人
帆船 日中 渡邊版 大正10(1921)年 木版、紙 東京国立近代美術館/個人
帆船 夕日 渡邊版 大正10(1921)年 木版、紙 東京国立近代美術館/個人
なんといっても吉田博の原点は山の風景です。
自然の中に溶け込み自然と一体になり自然の中に自らを沒することで初めて人を感動させ得る風景画が描けるのだとするす信念を生涯持ち続けました。
毎夏1ヵ月から3ヶ月山にこもるのが年中行事となっていました。移ろいゆく山岳風景の一瞬の美を捉えるために納得がいくまで何日も野営し、心に留まる風景を見つけると独特の早描き方法を駆使して一気に描き上げる。
山岳の美に魂を打たれつつその美を画布の上に再現すると言う事は私にとっては無常の喜びなのであると述べています。
渓流 昭和3(1928)年 木版、紙 千葉市美術館蔵
雲海に入る日 大正11(1922)年 油彩、カンバス 個人蔵
展覧会の構成は以下の通りです。
第一章 不同舎の時代:1894-1899
第二章 外遊の時代:1900-1906
第三章 画壇の頂へ:1907-1920
第四章 木版画という新世界:1921-1929
第五章 新たな画題を求めて:1930-1937
第六章 戦中と戦後:1938-1950
(本展HPの開催概要から)
「絵の鬼」と呼ばれ、水彩で、油彩で、木版画で世界に挑み続けた画人。ダイアナ妃や精神医学者フロイトも魅了した。
明治から昭和にかけて風景画の第一人者として活躍した吉田博(1876‐1950)の生誕140年を記念する回顧展です。
福岡県久留米市に生まれた吉田博は、10代半ばで画才を見込まれ、上京して小山正太郎の洋画塾不同舎に入門します。仲間から「絵の鬼」と呼ばれるほど鍛錬を積み、1899年アメリカに渡り数々の作品展を開催、水彩画の技術と質の高さが絶賛されます。その後も欧米を中心に渡航を重ね、国内はもとより世界各地の風景に取材した油彩画や木版画を発表、太平洋画会と官展を舞台に活動を続けました。
自然美をうたい多彩な風景を描いた吉田博は、毎年のように日本アルプスの山々に登るなど、とりわけ高山を愛し題材とする山岳画家としても知られています。制作全体を貫く、自然への真摯な眼差しと確かな技量に支えられた叙情豊かな作品は、国内外の多くの人々を魅了し、日本近代絵画史に大きな足跡を残しました。
本展では、水彩、油彩、木版へと媒体を展開させていった初期から晩年までの作品から200余点を厳選し、吉田博の全貌とその魅力に迫ります。
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