よみがえる画家-板倉鼎・須美子展
よみがえる画家-板倉鼎・須美子展は、
目黒区立美術館で開催されています
会期 2017年4月8日(土)〜6月4日(日)
未知の画家板倉鼎の、この展覧会を観に行こうと思ったのは、チラシの作品《赤衣の女》を見たからです。
好きな画家のひとりキスリングの作品が頭に浮かんでのことです。
《赤衣の女》 板倉鼎 1929年 キャンバス・油彩 松戸市教育委員会蔵
板倉鼎が参考にしたか否かはわかりませんが、若い板倉鼎がエコール・ド・パリの雰囲気の中で、集う画家から様々の新鮮な刺激を受けて、自分なりの個性を世界に問う所までたどり着こうとした・・・その時期に病を得てしまったのか?
展示作品を観ながらその格闘が垣間見られたような気がしました。
興味深い作品を堪能できたと思っています。
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板倉鼎は1901(明治34)年に医者の家に生まれますが、中学校で洋画家・堀江正章に学び、画家を志します。
医者を継がせたかった父の意向に反し東京美術学校西洋画科に入学した板倉は、岡田三郎助、田辺至の指導を受けました。
在学中の1921(大正10)年には第3回帝展に初入選を果たしています。
1924(大正13)年に東京美術学校西洋画科美術学校を卒業。
翌年にロシア文学者 昇曙夢長女 須美子と結婚。
(媒酌は与謝野鉄幹・晶子です)
結婚の翌年1926年2月、板倉夫妻は、ハワイ、アメリカ本土経由で鼎の念願だったフランス留学を果たします。
ハワイ滞在中には、現地の日本人会の支援で個展を開催しました。
後に須美子は絵を描き始めますが、ハワイ滞在中の思い出が反映しています。
パリで鼎の作品は、今までの写実的な作品から、モダンで大胆な構成の作風に一変します。
1927年には、サロン・ドートンヌ入選、次々と魅力的な作品を発表ししていきました。
そして、日本国内でも気鋭の画家として注目をされ始めた矢先、鼎はパリで病没し(享年28)、須美子も帰国後25歳の若さで亡くなってしまいます。
二人の間に生まれた子供の次女二三(ふみ)は生後1か月余りにで亡くなり、須美子と国に戻った長女一(かず)も2歳と1か月で死去します。
晩年、須美子は有島生馬の指導を受けました。
短い生涯を終えた板倉鼎、須美子ですが、二人をめぐる多彩な人々との濃密な交流の中から、吸収し昇華した感性から生まれた作品は、とても魅力的に思いました。
二人をめぐる人々(本展から)
美術学校の先生岡田三郎助。
媒酌人の与謝野鉄幹、与謝野晶子。
須美子の父、ロシア文学者の昇曙夢と親交のあった中村屋創業者相馬愛蔵。
鼎の死後、パリを出発するまで寄り添った宮本百合子
パリでの友人、岡鹿之助、田邊喜規、後藤禎二、伊原宇三郎
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展覧会の構成は以下の通りです。
1-1 板倉鼎
生誕から須美子との結婚まで
1-2 板倉鼎
フランス留学
2 板倉/昇・須美子
3 板倉夫妻をめぐる人々
鼎と須美子の死
《木影》 板倉鼎 1922年 キャンバス・油彩 松戸市教育委員会蔵
《静物》 板倉鼎 1927年 キャンバス・油彩 松戸市教育委員会蔵
《金魚》 板倉鼎 1928年 キャンバス・油彩 松戸市教育委員会蔵
《画家の像》 板倉鼎 1928年 キャンバス・油彩 松戸市教育委員会蔵
《黒椅子による女》 板倉鼎 1928年 キャンバス・油彩 松戸市教育委員会蔵
《ベル・ホノルル14》 板倉/昇 須美子 キャンバス・油彩 松戸市教育委員会蔵
《ベル・ホノルル24》 板倉/昇 須美子 1928年 キャンバス・油彩 松戸市教育委員会蔵
《午後 ベル・ホノルル12》 板倉/昇 須美子 1927~28年頃 キャンバス・油彩 松戸市教育委員会蔵
《松の屋敷》 板倉/昇 須美子 制作年不詳 キャンバス・油彩 松戸市教育委員会蔵
《展覧会概要》(HPから)
1920年代、共にパリに留学し魅力的な作品を数多く残しながら、惜しくも早世した板倉鼎(かなえ)・須美子夫妻の画業を回顧するとともに、二人と親交の深かった岡鹿之助はじめ、当館所蔵の、同時代にヨーロッパ留学・滞在中の画家たちが描いた作品で学んだ作家たちの作品をあわせて展観し、これまで一般にはあまり知られてこなかった板倉夫妻を中心に、当館がテーマのひとつとしてきた戦前期の「画家の滞欧」の興味深い一側面をご覧いただきます。
本展は2015年10月10日から11月29日まで、松戸市教育委員会の主催で、松戸市立博物館で開催された「よみがえる画家 板倉鼎・須美子展」を参照して、企画構成にあたった同教育委員会の田中典子さんを監修者にお迎えし、主要部分を再現します。また、同時代の滞欧作家たちの作品および関連資料等については、当館所蔵品を中心に新たに構成いたします。
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