マティスとルオー展 ―手紙が明かす二人の秘密―
マティスとルオー展 ―手紙が明かす二人の秘密―は、
パナソニック汐留ミュージアム
で開催されています。
会期 2017年1月14日(土)~3月26日(日)
汐留ミュージアムでは2013年に、
「モローとルオー -聖なるものの継承と変容-」展
が行われました。
「我が子ルオー」「偉大なる父」と彼らの往復書簡の中で呼び合う二人の間には、師弟を超えた 特別な絆がありました。モローは遺言によりルオーをモロー美術館初代館長に任命し、自分 亡き後も愛弟子を導き続けます。(HPから引用)
そしてこの展覧会では、
国立美術学校のギュスターヴ・モロー教室で共に学んだ、マティスとルオーの生涯にわたる友情の秘密に迫ります。
モロー教室で共に学んだ二人は、サロン・ドートンヌへの出品などを通して、フォーヴィスムなどの新しい芸術活動に進みます。
2つ世界大戦が起こる激動の時代、パリのルオーと、南仏ニースに拠点を移したマティス、そこに ニューヨークで画商をしていたマティスの子息ピエールが加わり活動範囲が拡がります。
ナチスによるパリ占領期に出版人テリアードが発行した芸術誌『ヴェルヴ』をはじめとする本作りの仕事にマティスとルオーは参加します。(沢山の雑誌が展示されています)
最終コーナーで、マティスの作品集『ジャズ』、ルオーの《聖顔》など宗教的な画題の作品を展示して、この展覧会を締めくくっています。
随所に、マティスとルオーの往復書簡の展示。
内容(要点)を掲示して、その深い交友関係を偲ばせます。
展覧会の構成は以下の通りです。
第1章 国立美術学校(エコール・デ・ボザール)からサロン・ドートンヌへ 1892年~1913年
第2章 パリ・ニース・ニューヨーク 1914年~1944年
第3章 出版人テリアードと占領期
第4章 『ジャズ』と《聖顔》1945年~1956年
マティス《スヒーダムの瓶のある静物》1896年 マティス美術館、ル・カトー=カンブレジ
マティス《モデル》 1901年 パリ市美術館
マティス《室内;二人の音楽家》 1923年 ポーラ美術館
マティス《窓辺の女》1920年 みぞえ画廊
ルオー《窓辺の静物》 1930年個人蔵(ジョルジュ・ルオー財団協力)パリ
ルオー《曲馬団の娘たち》 1924-25年 泉屋博古館分館
マティス《ラ・フランス》 1939年 公益財団法人ひろしま美術館
全編にフランス美術の精華を散りばめることでナチスによる抑圧への抵抗を表明した『ヴェルヴ』8号(1940年)に掲載された作品。
(キャプションから)
ルオー《聖ジャンヌ・ダルク》「古い町外れ」1951年 個人蔵(ジョルジュ・ルオー財団協力)、パリ
フランスそのものを象徴する女性像である聖ジャンヌダルク。
マティスと同様に女性を描きながらカトリック教会の聖人でもあるジャンヌダルクを選ぶあたりがルオーらしい。
(キャプションから)
記念撮影コーナー
椅子に座って、撮ることができます。(撮ってもらうことができます)
HPの解説。
1906年8月30日、アフリカ旅行から戻った36歳のマティスは、「中でも砂漠はすごかった」と、その強い印象を友人のルオーに書き送ります。国立美術学校で共に学んで以来、この二人の偉大なフランス人画家が交わした膨大な手紙のやりとりは、マティスが亡くなる前年の1953年まで、断続的ながら実に約半世紀に渡って続きました。
全く異なる画風を確立したマティスとルオーは、一方でフランス絵画の輝かしい伝統の継承者としての誇りと責任感を共有していました。それは、外国人を受け入れて輝きを増すフランス、あるいは第二次世界大戦に苦悩するフランス、そのいずれにあっても揺らぐことなく、自らの絵画で回答し続けた姿勢にも表れています。例えば、戦争を機に描かれたマティスによる《ラ・フランス》とルオーによる《聖ジャンヌ・ダルク》は、自由なフランスを象徴する堂々とした女性を描いてその白眉といえるでしょう。
本展では、二人や家族の手紙を紹介しながらその時期の絵画作品を展覧します。マティスの静物画《スヒーダムの瓶のある静物》をはじめとする貴重な初期の作品や、ルオーの重要な版画集『気晴らし』の油彩原画シリーズの全点出品など、フランスからの初来日作品を含む合計約140点を通して、マティスとルオーの友情の秘密に立体的に迫ります。
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