よみがえれ! シーボルトの日本博物館 展
江戸東京博物館で開催されています。
会期 2016年09月13日(火)〜11月06日(日)
没後150年を記念し、シーボルトが構想した「日本博物館」の再現を試みた展覧会。
シーボルトと日本に関する歴史的経緯とともに、幕末の日本の姿を如実に見せてくれる収集品の展示(工芸、民芸、学術的資料(宗教、民間信仰、風俗)など300点展示)には、感心してしまいます。
シーボルトの幕末日本社会に対する並々ならぬ関心を偲ばせます。
1823年(文政6)、27歳の若さで長崎に赴いたシーボルトは、ドイツ、バイエルン生まれのドイツ人です。
以後43年間、「約束の地」日本の研究と紹介に心血を注ぎ続けました。
長崎の出島はポルトガル人を隔離する為に長崎の有力者に作らせた小さな出島です。
鎖国を完成させた後はオランダ商館を移しました。(隔離のためですね)
シーボルトは、医者であった為、長崎の郊外に「鳴滝塾」を開くことができ、そこで地域住民の診療をしたり、西洋医学を教えて、多くの弟子を育てています。
日本の多様性に富む文化、自然に魅せられたシーボルトは、当時の最新の西洋医学を学びに集まった日本人医師や蘭学者、オランダ通詞を通じて博物収集も熱心に行い、本国に送っています。
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シーボルトは、身の回りの世話をしてくれていた楠本瀧(おたき)を見染めます。
やがて、二人の間にイネ(楠本イネ)が生まれます。
イネは後に、西洋医学を学んだ日本女性初の産科医になります。
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1826(文政9)年4年ごとに行われる商館長の「江戸参府」にシーボルトは同行することになります。
2か月の道中は日本調査の絶好の機会となりました。
絵師の川原慶賀を同行させて自然、風景、風俗などを記録させています。
人物画帖 川越人足
川原慶賀筆 江戸時代後期
1823-1830(文政6-天保元)年 MFK
しかし1828年、持ち出しが禁じられていた日本地図を持っていたことが発覚してシーボルトは来日6年目で国外追放となります。(シーボルト事件)
本展示には特定された禁制地図など、関連資料が展示されています。
シーボルト事件から30年後の1859年、開国した日本に、2度目の来日を果たして幕府の外交顧問として務めながら、さらなる博物収集に努めますが、顧問の仕事に、あまり成果が上げられず解雇され、1862年大量に収集した博物資料とともに帰国します。
博物資料、情報をヨーロッパへ持ち帰ったシーボルトは、三部作『日本植物誌』『日本動物誌』『日本』の三部作にまとめ、ヨーロッパで出版しました。
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日本に残したお瀧さん(楠本瀧)のことが忘れられず、
紫陽花に「Otaksa」という学名を付けヨーロッパに広めたエピソードは有名ですね。
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日本博物誌(図版)
オタクサ(アジサイ)
19世紀 SAB
さらに、日本博物館の構想を胸に、自らのコレクションによる展示を、ライデン、アムステルダム、ヴュルツブルク、ミュンヘンの各都市において実現します。
晩年、訪日を熱望し、フランス政府や幕府に働きかけを行いましたが受け入れられず、3度目の来日は見果てぬ夢に終わります。1866年10月18日、ミュンヘンで70年の生涯を閉じます。
本展では、新たに発見された、ヨーロッパ初の日本展示のイラストとともに、このイラストに描かれた資料の数々も同時に展示して、シーボルトが企画した展覧会を再現しています。
展覧会の構成は以下の通りです。
第1章 日本に魅せられた男、シーボルト
第2章 シーボルトの日本研究
第3章 シーボルトの日本展示と民族学博物館構想
第4章 ようこそシーボルトの日本博物館へ
第5章 日本研究者シーボルトの最期
HPの解説。
万国博覧会より早く、ジャポニズムにも先駆け、ヨーロッパにおける日本展示はすでに始まっていました――江戸時代、2度にわたり来日のうえ膨大な日本コレクションを形成したシーボルトは、このコレクションを駆使した日本博物館を構想し、その実現に生涯をかけました。
近代博物館、あるいは民族学が生まれつつあった19世紀なかばのヨーロッパで、いったい彼はなぜ、そしてどのように日本を見せようとしていたのでしょうか。
没後150年を記念した本展では、シーボルトが構想した「日本博物館」の再現を試みます。ミュンヘンから里帰りした約300点の作品から、「日出る国」に魅せられた男の「日本」を再構成します。
今月の新聞に、この様な記事が載っていました。
シーボルトが持ち帰った作者不明の西洋画、北斎作だった オランダの博物館に
IM動画ニュース 江戸博「シーボルト展」
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