円空仏 今上皇帝立像背面墨書銘文
今上皇帝立像 元禄三年(1690)桂峯寺
背面赤外線写真
トーハクで4月7日まで「飛騨の円空 千光寺とその周辺の足跡展」が開催されています。
早速行ってきましたが、図録に興味深い解説がありますので、そのまま転載します。
どのように思われますか?
実際背面に回って銘文を見てくるのも良いかと。
「元禄三庚午九月廿六日
今上皇帝 当国万仏
□□仏作已」
この銘文は大変重要であるが、読みと解釈で意見が分かれている。
まず、元禄三年(1960)九月二十六日にこの像の現所在地である現在の高山市上宝町金木戸に円空がいたことは確実である。
この前年八月に園城寺尊栄から受注しているので、この時までに飛騨に来たことになる。
問題は「当国万仏」である。「当国」で一万体の仏像を造ったと読むのは変わりないが、「当国」を飛騨とみる説と日本とみる説がある。そして次の行一文字目を「十」と読み、十の次の文字はマに似た形とみて、これが「万」と読む説と「部」のこざと扁とみる説がある。
「万」と読む説は、「当国」を飛騨とみて、飛騨国で一万、全国合わせると十万体を造り終えたと解釈する。
「部」と読む説は十部仏、聞きなれない言葉だが、たくさんの種類の仏を造ったという意味とする。
この説をとり、十万という大量の造像を伝説にすぎないという論者は「当国」を日本とし、元禄三年までに一万体、あるいはそれは正確な数を示すものではなく、たくさん作ったという円空の感慨の吐露と見る論者もいる。
しかし、ここに二字書かれているとすると、この銘文の他の文字と比べてかなり小さい文字になる。また、下方は「マ」やこざと扁の省略形より画数があるようにも見える。
円空が大量の仏像を残した愛知県名古屋市の荒子観音寺第十七世住職全栄が天保十五年(1844)に書いた。『浄海雑記』の「円空上人小伝」に「自ラ十二万ノ仏軀ヲ彫刻スルノ大願ヲ発シ」とある。既に十八世紀末の資料に十二万造仏の記事が見られる。
円空没後百年を経過しているので信憑性は不明だが、そうした伝承があったことは確かなのだろう。十二万体の造仏を物理的に無理とする見解もあるが、どうだろうか。千日回峰、不断念仏など僧侶の修行には常人の想像を絶するものがある。今に残る千体仏を見ると円空にとって造仏は作善であり、修業であったように思われる。
木端仏ならば一日五十体は不可能ではないだろう。二十日で千体、その行を年四回行えば、三十年で十二万体になる計算だ。
円空の作風は北海道・東北遊行の頃と延宝末年以降では大きく異なる。すなわち、像表面の鑿跡をきれいに浚か、そのまま残すか、あるいは断ち割ったままのところを残してた足などの彫刻を省くという差である。この転換は大量造仏の発願がきっかけになったとすると解釈しやすい。
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