維新の洋画家 川村清雄
この展覧会は江戸東京博物館で10月8日(月・祝)~12月2日(日)まで開催されています。
川村清雄って?
この展覧会を観るまで、私は全く知りませんでした。
勝手に、所謂、やに派と称されたような絵画が並んでいるのかな?
そんな展示の様子を頭にに浮かべていました。
実際は、この博物館の企画展コンセプトなのでしょうが、歴史の重みがズシリと感じられる展覧会でした。
川村家から江戸東京博物館に寄贈された幕臣川村家史料を基に勝海舟などとの交流のエピソードと共に清雄の生涯を辿る展覧会になっています。
勝海舟、篤姫を描いた
しられざる巨匠。
展覧会の構成は以下の通りです。
(HPの解説を参考にしています)
序章 旗本の家に生まれて
川村清雄は、黒船来航前夜にあたる嘉永5年(1852)、旗本川村家の長男として江戸に生まれました。
代々、文雅の道にたけた家に育った清雄は幼時から住吉派などの画を学んでおり、幕府の洋画研究機関である開成所画学局に入り、西洋画の手ほどきを受けました。
第1章 徳川家派遣留学生
清雄は徳川家派遣留学生として法律を学ぶ目的でアメリカへ行きます。
しかし、画才を見出だされ、本格的な絵画修業をすることを決心します。
その後の清雄は帰国命令が出るまでの11年間を、パリ、ヴェネツィアでアカデミズムの油彩画を徹底的に学びました。
帰国に際して、ヴェネツィアの友人たちは清雄に日本人が持ってきた美の感性を大切にするよう教えました。
川村清雄《静物写生》 明治 8 年( 1875 ) 紙、鉛筆
静岡県立美術館蔵
10/8~11/4 展示
ジャンバッティスタ・ティエポロ 《聖ガエタヌスに現れる聖家族》 18世紀前半 カンバス、油彩
ヴェネツィア・アッカデミア美術館蔵
江戸東京博物館のみ展示
ティエポロは清雄がヴェネツィア留学時代に、崇敬した画家の一人。
川村清雄 《徳川家達像》 板、油彩 1878年
徳川記念財団蔵
第2章 氷川(ひかわ)の画室
帰国した清雄は、大蔵省印刷局の技手として迎えられますが局内の紛争により、わずか1年足らずで印刷局を解雇されてしまいます。
清雄は勝海舟に助けられます。
勝海舟は清雄のために自身の邸内に画室を建ててやりました。
この画室から、徳川家とゆかりの人々の肖像を描いた作品が生まれます。
海舟が無くなった時の葬儀に清雄は白直垂を着して棺側に従いました。
それから間もなく、清雄はその白直垂をモチーフにし、海舟への感謝と鎮魂の思いをこめた《形見の直垂》を描き上げました。
川村清雄《天璋院(てんしょういん)像》 明治17年(1884)板、油彩 德川記念財団蔵
11/13-12/2展示
川村清雄《江戸城明渡の帰途(勝海舟江戸開城図)》 明治 18 年( 1885 ) カンバス、油彩
東京都江戸東京博物館蔵
川村清雄《蛟龍(こうりゅう)天に昇る》 明治24年(1891)頃 カンバス、油彩
福富太郎コレクション資料室蔵
10/30-12/2展示
川村清雄《形見の直垂(虫干)》 明治32年(1899)以降 カンバス、油彩
東京国立博物館蔵
第3章 江戸の心を描く油絵師
清雄の作風は和魂洋才ともいえるもので、背景に金銀箔を用いたり、絹本や紙本、漆塗板や木地をあらわした古代杉の板など、日本の伝統的な素材を利用しました。
しかし、当時の洋画界、西洋絵画の受容期にあっては清雄流の挑戦を理解しませんでした。
清雄はやがて画壇から遠ざかり、忘れられた存在となっていきます。
しかし、清雄の絵画と、人物を愛する理解者に支えられ、江戸趣味の香り高い独自の芸術世界を築いていきました。
川村清雄《波》 大正~昭和2年(1927)頃 カンバス、油彩 静岡県立美術館蔵
川村清雄 《福澤諭吉肖像》明治33年(1900年頃》 カンバス、油彩 慶応義塾蔵
川村清雄《お供え》 (部分) 大正~昭和初期 板、油彩
福富太郎コレクション資料室蔵
終章 《建国》そして《振天府》
世に忘れられつつあった清雄でしたが、そんな折、聖徳記念絵画館建設の議がおこりました。
明治天皇の生涯を80枚の大きな壁画で表すという事業に制作者の一人として選ばれました。
清雄を支援し続けてきた徳川家達の指名です。与えられた画題は、皇居内の庫「振天府」で、本店ではその下絵が展示されています。
その頃フランスからの要望で描いたのか今回オルセー美術館から83年ぶりに里帰りした《建国》です。
川村清雄 《建国》 昭和4年(1929) 絹本油彩
オルセー美術館蔵
川村清雄 《振天府》下絵 昭和6年(1931)以前 カンバス、油彩
明治神宮蔵
| 固定リンク
コメント