フェリーチェ・ベアトの東洋 J・ポール・ゲッティコレクション
この展覧会は恵比寿の東京写真美術館で3月6日~5月6日まで開催されています。
お彼岸のころに行ってきたのですが、この展覧会も含め、投稿が全て大幅遅れ、本当は観た直後の新鮮ないイメージを定着させたいのですが.....。
ベアトの残した写真は、百数十年前の東洋を日本を、この展示会場に持ち込んだようなリアリティーを持っています。J・ポール・ゲッティコレクションに加え東京写真美術館所蔵写真も含めた展示は見どころいっぱいです。
フェリーチェ・ベアト(Felice Beato、1832年 - 1909年1月29日)は、イタリア生まれのイギリスの写真家。
初期の従軍写真家の一人でもあり、クリミア戦争から写真師としてのキャリアをスタートし印度動乱(セポイの乱)、中国の第二次アヘン戦争へと取材しながら東へと旅します。そして文久3(1863年に日本を訪れて20年以上の長きにわたって横浜に滞在。風俗写真やパノラマ写真を含む、多くの風景写真を残しています。激動期の日本を明らかにする貴重な資料でもあります。又、この美術館の写真展でも度々紹介されてきた写真家、日下部金兵衛、上野彦馬などにも多大な影響を与えました。ベアトは、写真だけではなく、多くの仕事を手がけ、横浜に住んでいたチャールズ・ワーグマンと共に「Beato & Wirgman, Artists and Photographers」を設立し、1864年から1867年まで共同経営しました。ワーグマンはベアトの写真を基に挿絵を描いたりもしています。
ワーグマンとの共同経営は解消した後には、米朝戦争(辛未洋擾)に従軍したりします。この時の写真は朝鮮を紹介する初めての写真とされています。
やがてベアトは日本を離れ、エジプトのポートサイドに落ち着きます。
横浜での銀の取引に失敗し、ほとんどの財産を失ったとも言われています。
さらにイギリスにもどり、ビルマに渡ったりもしています。ビルマが最終の活動地となります。
●初期作品 1855‐57
ジェイムズ・ロバートソン、フェリーチェ・ベアト
スルタンアフメト・モスク 1853-57年
素材・技法 鶏卵紙
●インド 1858‐60
フェリーチェ・ベアト
第93高地連帯と第4パンジャブ連帯による2千人叛乱兵隊虐殺のシカンダルバー宮殿内部。1857年11月のサー・コリン・キャンベルによる最初の攻撃。
1858年
素材・技法 鶏卵紙
●建築写真
●パノラマ
フェリーチェ・ベアト
愛宕山から見た江戸のパノラマ 1863‐64年
素材・技法 鶏卵紙
●中国 1860
●日本 文久3年-明治17年
●手彩色写真
●東京都写真美術館コレクション
●幕末期
フェリーチェ・ベアト
長弓を持つ侍 1863年
素材・技法 鶏卵紙
●朝鮮 1871
朝鮮軍将軍旗「帥字旗」 1871年6月
素材・技法 鶏卵紙
●ビルマ 1887‐1905年頃
フェリーチェ・ベアト
ザガイン寺院内の49の釈迦像 1887-95年
素材・技法 鶏卵紙
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