生誕100年 ジャクソン・ポロック展
この展覧会は2月10日(金)~5月6日(日)まで竹橋の東京国立近代美術館で開催されています。
美術ファンならずとも観ておいた方が良いんじゃないかな・・・なんてお節介なことまで考えてしまいます。
ある観点から、ピカソを越えたとの評価も頷けます。
44歳飲酒運転による事故で亡くなるまでのポロックの短い、画家としての人生を時系列で概観できるまたとないない機会です。
「ピカソが全部やってしまった」という言葉を遺していますが、エド・ハリス渾身の監督作品「ポロック 二人だけのアトリエ」にもこの台詞はあります。私の記憶では、飲んだくれてアパートの階段を転げながらつぶやいたような・・・・
私が観に行った日は空いていてじっくり鑑賞できました。
外国の方がいつもの近美に比べて多かったような気もしました。
何といっても、《インディアンレッドの地の壁画》は評判通りの良い作品でした。
「豪胆にして繊細、饒舌にして明晰、幻惑的な静謐、伝説の最高傑作」とチラシには書いてあります。
混沌の中からの、新しいイメージの発見に踊る心の奥底の躍動感そのリズムを感じました。
観た瞬間、えもいわれぬ感情が微塵の違和感もなく湧いてきます。
ポーリング、ドリッピング技法で埋め尽くされたオールオーバーな画面は、ポロックのポロックたる所以ですね。
1976年パーレビ時代イランに所蔵され、直後のイラン革命以来門外不出となっていた作品です。
あまりお金の話はしたくありませんが保険評価額200億円ともいわれている作品です。
この展覧会全体をみて、ブリジストン美術館でお馴染みの作品他、結構国内の美術館でもポロックの作品を所蔵しているのだな、なんて思ったりもしました。
そして早い時期に(1951年頃)ポロック作品は日本でも紹介されていたんですね。
展覧会の構成は以下の通り。
(画像は、チラシ、図録から、文章は本展のHPを参考にしています)
第1章 1930-1941年:初期 -自己を探し求めて-
1930年ニューヨークに出て絵画を学び始め、師事した地方主義の画家トーマス・ハート・ベントンのほか、ネイティヴ・アメリカンの芸術やメキシコ壁画、ピカソなど、ヨーロッパの前衛美術の影響を受けながら自分のスタイルを模索していった時期です。
無題 自画像1930~33年頃
15歳から始まった飲酒癖は、ポロックの人生、画業にも影響を及ぼし続けたんですね。
綿を摘む人たち 1935年頃
地方主義の画家トーマス・ハート・ベントンの影響が顕著な作品。
コンポジション 1938~41年頃
ネイティヴ・アメリカンの芸術の影響がみらる作品、インヂアンの砂絵師の方法とポーリング技法の関連を・・・
誕生 1941年頃
ネイティヴ・アメリカンの芸術の影響とピカソ的要素がみらる作品とされる。
第2章 1942-1946年:形成期 -モダンアートへの参入-
1942年以降、ポロックはヨーロッパのモダンアートをより積極的に吸収し始め、1943年に個展を開催。
飛躍的に活動の場を拡げていく時期です。
ブルー 白鯨 1943頃
ミロの特徴を取り入れたとされる作品。
トーテム・レッスン2 1945年
第3章 1947-1950年:成熟期 -革新の時-
「ポーリング」や「ドリッピング」の技法をオーバーオールに描くポロックが美術の歴史に名を刻む代表的な大作を次々に生み出した時期です。
更に次へのステップを模索し始めました。
《ナンバー7,1950》1950年
インディアンレッドの地の壁画 1950年
カット・アウト 1948~58年
第4章 1951-56年:後期・晩期 -苦悩の中で-
1951年、ポロックはその作品方向を換えます。多色を用いず、黒のそして具象的イメージが再び描かれ始めるます。作品数は減り、世評も落ち込み、私生活でも問題を抱え、新たな可能性を模索するのですが・・・・
ナンバー7、1952 1952年
| 固定リンク
コメント