没後100年 青木繁展―よみがえる神話と芸術
ブリジストン美術館で9月4日まで開催。
39年振りだそうです。
書簡、素描等を多数展示、総点数240点の大回顧展です。
青木繁作品の展示があると知ると、出来るだけ、その展覧会に行っていましたが、この展覧会は総集編ですね。
青木繁ゆかりのブリジストン美術館ですからね、力が入っています。
石橋財団の創始者石橋正二郎は青木繁の作品からコレクションを始めたんでしたよね。
この展覧会の感想を書くのって難しい。
以下は、公式HP等を参考にしながらです。
第1章 画壇への登場─丹青によって男子たらん 1903年まで
画家を志し、中学を退校して上京、小山正太郎の画塾不同舎に入門、翌1900年には東京美術学校西洋画科に入学。在学中の1903年秋に開催された白馬会第8回展に神話に取材した作品群を出品し、白馬賞を受賞する。
(東京美術学校西洋画科教官には黒田清輝、藤島武二らがいた)
(西洋美術の研究も盛んに行う、作風にラファエル前派の影響がみられるとも)
《輪転》1903年 石橋財団石橋美術館
《黄泉比良坂》 1903年 東京藝術大学
第2章 豊饒の海─《海の幸》を中心に 1904年
1907年7月、東京美術学校を卒業した青木繁は、友人の画家・坂本繁二郎、森田恒友、恋人の福田たねと4人で房州布良を訪れ、1カ月半の滞在する。そして《海の幸》を描く。9月に白馬会第9回展に出品され、好評を得る。点描による外光表現の海景も描いています。この年が青木にとって生涯の絶頂期となる。
《海の幸》 1904年、石橋財団石橋美術館
《海景(布良の海)》 1904年、石橋財団ブリヂストン美術館
丘に立つ三人 1904年石橋財団石橋美術館
第3章 描かれた神話─《わだつみのいろこの宮》まで 1904-07年
神話や聖書の物語に取材した作品を残した時期。特に日本神話が発想の大きな源となった。《大穴牟知命》(1905年)、《日本武尊》(1906年)、《わだつみのいろこの宮》(1907年)などの一連の作品を制作している。この時期、福田たねとの間に生まれた息子に「幸彦」と命名している。自信作《わだつみのいろこの宮》は1907年春の東京勧業博覧会に出品するも、思い入れ程の評価は得られなかった。
エピソード(画家の後裔(講談社文庫(絶版)放浪三代 石橋エイタローから)
母は毎年衣替えの頃になると、着物と一緒にその絵を虫干しした。
怖い絵だったとにかく怖い絵だった。
祖父がたえず気にかけながら、九州に帰っていくため父のもとに遺された作品「大穴牟知命」がこれである。だが、子供心には恐ろしいとしか感じなかった。
(中略)
夜中など頭のところに絵が立てかけてあるので、薄目を開けてみると、どう見ても「素晴らしい」とか、「高いもの」とか、「美しい」とかとは思えなかった、頭からかぶった布団の中から覗くと(中略)小さな暗い電球の先に鈍く反射して、ますます背筋がぞくっとして、明るくなるまで、小ようにも行けなかった。
「眠れないからむこうに向けて」
と、母にせがんだり、新聞紙を覆せてもらって寝たのを思い出す。
この「大穴牟知命」との対面こそが、祖父と私のはじめての出逢いといえよう。

《大穴牟知命》 1905年、石橋美術館
《わだつみのいろこの宮》 1907年、石橋美術館
第4章 九州放浪、そして死 1907-11年
1907年、父危篤の報を受けた青木繁は久留米に帰省します。父の死後、母、兄弟との問題や、栃木県に残した遺児に関する福田家との問題に翻弄される。中央画壇への復帰を画策するが、夢が実現することはなかった。、九州各地を放浪し、最後は福岡市の病院で亡くなります。
《朝日(絶筆)》 1910年、小城高校同窓会黄城会(佐賀県立美術館寄託)
第5章 没後、伝説の形成から今日まで
死後、友人の坂本繁二郎らよって遺作展が開催され、またその翌年には画集が刊行される。Ⅰ948年には、河北倫明氏による最初のまとまった評伝が刊行され、青木作品の評価が高まる。この章では、青木の作品を残し広く世に知らせるために努めた人々に注目しています。
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コメント
yoshiさん、コメントを頂き有難うございます。暇な時がありましたら、ご覧下さい。宜しくお願い致します。
投稿: yoshiさんへ | 2011.07.30 18:39
はじめまして
四十代後半の主婦です。 時々読ませていただいてます。
本好きなので、本の蘭をよく読ませていただきました。
よろしくお願いします。
投稿: yoshi | 2011.07.29 11:13