魅惑のモダニスト 蕗谷虹児展
そごう横浜店6階のそごう美術館で7月18日まで開催。
童謡「花嫁人形」は、語感が良くて忘れられない詩ですよね。
蕗谷虹児の代表作でもありますね。
きんらんどんすの 帯しめながら
花嫁御寮は なぜ泣くのだろ
文金島田に 髪結いながら
花嫁御寮は なぜ泣くのだろ
あねさんごっこの 花嫁人形は
赤い鹿の子の 振袖着てる
泣けば鹿の子の たもとがきれる
涙で鹿の子の 赤い紅にじむ
泣くに泣かれぬ 花嫁人形は
赤い鹿の子の 千代紙衣装
花嫁(部分)1969年
蕗谷虹児は明治31年に生まれ、大正・昭和に亘って活躍しました。
二度にわたる世界大戦、関東大震災、あらゆる意味で濃密な時代ですよね。
二十代後半で亡くなった美人の母、その面影を引きずって....作品に反映されているのかもしれません。
新潟県新発田市に生まれ母の死後、蕗谷は丁稚奉公しながら夜学に通います。
そして、14歳で上京日本画家の尾竹竹坡に師事して日本画を学びます。
展覧会はその頃の作品展示から始まります。
その後、新聞記者の父の元、樺太で二年程度放浪画家生活を送り帰郷、上京し、日米図案社に入社、図案家としてデザインの修行します。そこで竹久夢二の目にとまり、雑誌『少女画報』主筆の水谷まさるを紹介され、蕗谷虹児の筆名で挿絵画家としてデビューします。翌年朝日新聞に連載の吉屋信子の長編小説『海の極みまで』の挿絵に大抜擢され、時代の寵児となります。
大正13年に、『令女界』に発表した詩画「花嫁人形」が冒頭の詩です。
後に杉山長谷夫の作曲で童謡になりました。
やがて、挿絵画家ではなくタブローの画家として制作したいという思いを捨て切れず1925年パリに向かいます。
藤田嗣治、東郷青児らと交流しながら、サロンでの入選を果たすようになるが、留守宅の経済逼迫で4年で日本に戻ります。日本に戻った蕗谷は借金返済のため、挿絵画家とした再活動、当時のパリファッション、空気を描き込んだ作品は女性の憧れの的になります。
やがて時代は、戦争へとのめり込んでいきます、蕗谷の描く世界は世相に合わず一時制作を辞めます。
終戦後は、復興された各誌に執筆を再開、多数の絵本の挿絵で子供に親しまれました。
また、「東映動画スタジオ」の設立に参加し、アニメーション映画『夢見童子』の原画・構成を担当しました。
会場ではその作品が放映されています。
三島由紀夫他、多数の作家の書籍挿絵装丁も行っており、こちらの展示もあります。
自らの絵を「抒情画」と名付けた蕗谷虹児の展覧会
大正浪漫、アール・ヌーボーやアール・デコ、表現主義などから影響を背景に感じながらノスタルジックな展覧会です。
女性の観客が多いのですけれど.....おじさんでも勿論楽しめますよ(と思いますよ)
睡蓮の夢 1924年
テラスの秋 1924年
潮風 1928年
旅の絵便り 出帆 1926年
ひなげし 1936年
薔薇と少女 1968年
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コメント
美輪さんコメントを頂き有難うございます。
この様な企画展が好みなんでしたよね。残念ですけど、今回は、致し方ありませんね、遠いですものね。あちらこちら、展覧会を歩いていますので、また、機会があれば投稿します。
投稿: 美輪さんへ | 2011.06.30 10:21
凄く気になっていた展覧会だったんですが、横浜と聞いて諦めました。でも展示はとても素敵そう。都内だったら何とか頑張ったんですが‥残念です。
投稿: 美輪 | 2011.06.29 18:39