芭蕉とびこむ水の音
山折哲男著
近代日本の美意識の一節です。
面白かったので、以下に大幅に要約して、ご紹介します。
ご興味のある方は、本文で.....。
芭蕉を、殺してしまいたいと考えた人間がいた。たとえば折口信夫である。けれども世の中には可笑しなもので、このままでは芭蕉は死んでしまうと思いこみ、その救済をはかろうとした人間もいる。仙崖という坊主である。
という書き出しで始まります。
1、折口信夫の殺意
の最終段
折口信夫のいう「まれびと」の周辺には、神もいなければ仏もいない。ましていわんや、「まれびと」は神でも仏でもない。「まれびと」は「まれびと」である。それは呪うべき寂寥を食って生きる鬼のような「ひと」以外の何者でもない。その「ひと」の発する呪語が、やがて形のある音声になり、文学の言葉になった。詩の言葉になった。
その一筋の文学の流れを断ち切ったのが仏教の慰籍哲学だった。「まれびと」に発する詩の生命を破壊したのが仏教の歓喜哲学だった、と彼はたたみかけていうのだ。
芭蕉に弓ひく折口は、いかにも颯爽としているではないか。芭蕉流のメタファジークが「アララギ」を内部から腐食させているとみて、その総体を血祭りにあげようとしたのである。
折口は明らかに芭蕉に殺意を抱いていたのだと思う。その殺意が、芭蕉によってすくいあげられた慰籍と歓喜の母体に冷笑を浴びせている。
2、仙崖の挑戦
仙涯も、わけのわからない坊主である。生涯、芭蕉と格闘したようなところがある。芭蕉にあらがい芭蕉のふところに飛びこもうとした。俳諧師に対する坊主の挑戦、といった趣がないわけではない。
古池や芭蕉飛びこむ水の音
座禅して人が仏になるならば
芭蕉には身もなく心もなきものを
葉ばかりながら翁とはもうす
池あれば飛んで芭蕉にきかせたい
この一節の最終段
禅臭とたたかっている仙崖と仏教臭に抗っている芭蕉が至近距離にまでにじり寄っているように私にはみえる。
その交錯する場面がなんとも面白い。その人間の磁場が限りなく私を惹きつける。
芭蕉は声にならない声を発しているのだ。
蛙よ、水中に飛べ、オレも飛ぶ。
仙崖も心中に叫んでいる。
芭蕉よ、池中に飛びこめ、オレも跳躍する....。
だが折口信夫は、そのような芭蕉におそらく我慢がならなかったのだろう。なぜなら孤独に感謝を、呪うべき寂寥に慰籍と歓喜を注ぎこんだ仏教臭こそ、彼にとっては天を戴くことのできぬ文芸の敵だったからである。芭蕉はその慰籍文学、感謝哲学を日本詩歌の大動脈に注入し、そのことで言葉の活力を枯渇せしめた張本人だったからからだ。
この記事は、本文と多少異なる部分があります。
あしからず。
大意に相違はないと思います。
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