キスリング展
そごう美術館に行くのは、久しぶりです。
大混雑の横浜駅改札口を出て、さて、右に進むか、左か、迷ってしまいました。
8月26日まで開催されています。
10月に府中美術館にも巡回するようです。
HPでご確認ください。
モンパルナス--その青春と哀愁と副題にあります。
キスリングの20歳から、62歳までの作品60点あまりで構成された展覧会です。
私は、キスリングの描く、哀愁をおびた孤独そうな面立ちが大好きです。
どなたかが、「宝石のように輝くマチエール」と書いておられましたが、良い表現だと思います。
4章に分けての展示です。
以下、人物画を中心に図録からご紹介します。ただし、宝石のような絵肌は実物で....。
(解説も図録の要約です)
第1章 1891~1915 パリへ そして戦争へ
ポーランドにユダヤ人の仕立て屋の子として生まれた、キスリングは、クララの美術学校の先生の勧めでパリに向かう。
所謂、エコール・ド・パリの画家たちと親交を持ち、それなりの影響をうけるものの彼独特の作風萌芽が.....。
同郷の画家との決闘事件、外人部隊としてフランスのために戦う。
そんな、時期でもあった。
第2章 1915~1925年 モンパルナスの寵児として
戦闘で、胸を負傷したキスリングはパリに戻る。
ルネ・グロと結婚、終戦、平和を取り戻したパリで、「モンパルナスのプリンス」と呼ばれるまでになる。
この時期、大きな影響を受けたモジリアニの死に出会う。
彼は、葬儀費用の全額を負担する。
フランスへの帰化も果たす。
第3章 南フランスとパリを行き来して
ますます名声を高めた時期にあたる。
しかし、第二次世界大戦が始まり、パリはドイツ軍に占領され、身の危険を感じたキスりングはアメリカにわたる。
第4章 1941~1593年 アメリカへ そして帰国
セントラルパークの近くにアトリエを構えたキスリングは、個展を開いたりして、フランスにいる芸術家やその家族に援助する。
大戦後、パリに戻った彼のもとには、各界の名士が集うようになる。
勲章を受けることにもなる。
しかし、1951年、久しぶりに開いた個展直後に倒れ死去する。
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