記憶に残る文章070125
釈尊の直弟子の一人舎利弗尊者には、次のような前生譚がある。彼は前世においてもきわめて忠実な仏教徒であって、布施、忍辱その他の、開悟にいたるための六波羅蜜行や八正道を忠実に行じていた。にもかかわらずまた人の身に生まれてしまったのだが、それは彼があるとき、道で出合った男の辱めを忍びかねたからであった。男は舎利弗尊者の清らかな眼をみて、ひとつ自分にくれと言った。尊者は片目をえぐり抜いてあたえた。男はついで、もうひとつくれと言った。尊者はふたたびあたえた。と、男は、何んだこんなものと言って道に捨ててしまった。尊者はそのとき、一瞬の怒りをおぼえた。辱しめを忍べなかったその一瞬の我執が、舎利弗尊者を成仏せしめず、ふたたび六道をへめぐらせることになったというのである。むろんたとえ話にすぎないが、この舎利弗尊者より、さらに徹底した利他行を行じた人びとが実際にいたことが、私にはおそろしい。
真継伸彦著 親鸞から引用しました。
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コメント
elmaさん、コメントを頂きありがとうございます。
>このような「舎利弗」以上に利他行に生きた人というのは、どういう人なのでしょうか?
本書では、徹底的な布施を行じて、虎や狼にわが身を与えたりした名もない仏教徒が、インドにも中国にも大勢いたと書いています。
他力本願など考えもしなかった時代の話ですね。
宗教は、家庭、社会環境、強烈な体験、修行なしには、帰依できないのかもしれませんね。
投稿: elmaさんへ | 2007.01.28 08:15
「利他行」という言葉はすばらしい言葉ですが、実践するとなると難しいですね。私の職場でも「衆生済度」に生きるなどという言われ方をしていますが、「理念」としてはすばらしいと思うのですが、実際は(?)です。
このような「舎利弗」以上に利他行に生きた人というのは、どういう人なのでしょうか?
「無償の愛」なんて、とてもとても・・・です。
投稿: elma | 2007.01.27 23:23