三鷹、太宰、玉川上水
三鷹の美術館へ行った帰りに、何時もの様に、吉祥寺まで、玉川上水沿いに歩きました。
雨の玉川上水は、緑のトンネルになっていました。
太宰の小説を通読したのは、はるか昔、高校生のときです。
以下は、野原和夫著「太宰治 結婚と恋愛」から抜粋引用させていただきました。
(中略)とあるのは著者によります。(略)は私によるものです。
「斜陽」の最終章でかず子は、上原二郎に宛てての、「おそらくこれが最後の手紙を、水のような気持で」書く。どうやら、あなたも、私をお捨てになったようでございます。いいえ、だんだんお忘れになるらしゅうございます。
けれども、私は、幸福なんですの。私の望みどほりに、赤ちゃんが出来たやうでございますの。私はいま、いっさいを失ったような気がしていますけど、でも、おなかの小さな生命が、私の孤独の微笑みのたねになっています。
(中略)
マリヤがたとひ夫のない子を産んでも、マリヤに輝く誇りがあったら、それは聖母子になるのでございます。
私には、古い道徳を平気で無視して、よい子を得たといふ満足があるのでございます。
(中略)
私はあなたを誇りにしていますし、また、生まれる子供にも、あなたを誇りにさせようと思っています。
私生児とその母。
けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争ひ、太陽のように生きるつもりです。「斜陽」は「新潮」の七月号から十月号にかけて連載された。
(略)
その年の十一月十二日、静子に女の子が誕生した。十五日、通が生まれた子の命名と認知を頼みに三鷹に来た。山崎富栄が下宿している部屋で太宰は通に会い、認知状を認めた。
「証
大田治子
この子は 私の 可愛い子で
父を何時までも誇って
すこやかに育つことを念じている
昭和二十二年十一月十二日
太宰治」(略)
その夜、富栄は両親に宛てた遺書をしたためている。「私ばかりしあわせな死に方をしてすみません」に始まるその遺書の中で富栄は、「骨は本当は太宰さんのお隣にでも入れて頂ければ本望なのですけれど、それは余りにも虫のよい願いだと知っております」と書いている。
(略)
六月三十日深更、太宰治と山崎富栄は玉川上水に入水した。
室内はきちんと整理され、本箱代わりに使っていた竹の行李の上に、二人の写真が並んで飾ってあって、その写真の前に、小さな茶碗に入れた水と線香が供えられていた。
美智子夫人宛の遺書は隅の小机の上に置かれていたが、その傍に、いつ、どこで買いもとめたのか、三人の子ども達への小ぶりの玩具が、ひっそりとおかれてあったという。
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コメント
elmaさん、コメントを頂き有難うございます。
太宰は、何度か未遂事件をおこしていますよね。
美学などと言うのではないと思います。
こんな兄貴がいたら、殴る、蹴るぐらいのことはやらないと気がすまないかもしれません。
でも、人とは、付き合ってみないと分からないですからね。
太宰の小説は、読み始めたら止まらないから困ります。
投稿: elma さんへ | 2006.05.29 12:39
「斜陽」は、すばらしい作品だと思います。私生児として生まれた太田治子さんも作家としてご活躍されていますね。(読んだことはありませんが・・・)
かず子の強さは、女としての強さだと思います。それに比べ太宰のいい加減さ!子どもはかわいかったのでしょうが・・・。自殺は、彼の美学の成就だったのでしょうか。
投稿: elma | 2006.05.28 11:46