2017.07.07

北斎ゆかりの地「小布施」に行ってきました。 2017年7月

北斎縁の地「小布施」に行ってきました。
訪れた目的は、北斎作品の観賞と「北斎が滞在した小布施」の空気を感じることです。
小布施と「小林一茶」の縁も気になったので・・・・

北斎は、小布施出身の高井鴻山の招きで83歳から小布施に滞在し多くの肉筆画を残しています。
岩松院本堂の天井には「八方睨み鳳凰」を描きました。北斎が残したもっとも大きな作品とされています。
そして、北斎館には有名な祭屋台とその天井絵が展示されています。この日、企画展示室では「富士に挑んだ北斎展」が開催されていました。
また、常設展示室には所蔵作品の肉筆画などが展示されていました。

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新幹線で長野まで行き、長野電鉄に乗り換えて小布施駅に向かいました。

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「特急スノーモンキー号」って思い切った名前だな~と思いましたが。
行き先を見て「あっ、そうか~」
湯田中!
外国人観光客に人気の「雪景色の温泉に浸かる猿」
確認したわけではありませんが・・・たぶん、そこからですよね。

小布施駅に到着。
観光案内所で、観光行程を相談。
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主な目的地を決めて、あとは適当に・・・・いつもこんな感じです。

先ずは、おぶせロマン号(周遊バス)に乗って岩松院に向かいました。
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岩松院に到着。
山門を通過して、本堂に向かいます。
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そして、「八方睨み鳳凰」鑑賞。
かつては、床に寝ころんで天井画を鑑賞で来たそうですが、今はベンチに座って、繰り返し流れる解説を聞きながらの観賞です。
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本堂

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21畳敷きの大きさの鮮やかな画面は圧倒的。


岩松院を後にして、里山の道を浄光寺まで歩きました。
道すがら句碑が点在していました。
一茶ゆかりの地の所以なのでしょう。
新緑か紅葉の季節に歩くと気持ちいいだろうな~
この日は蒸し暑くて・・・
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北信最古の薬師堂のある浄光寺。
薬師堂は室町時代を代表する建築物として国の重要文化財に指定されています。
木立に佇む堂内では法要が行われていました。
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さらに、「フローラルガーデンおぶせ」へ歩いて行きました。
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ここにはバスの出発時間の関係で短時間の滞在でした。
「おぶせロマン号」に乗って最終目的地の「北斎館」へ・・・

小布施らしい風情の陣屋小路、栗の小径の一帯の中に北斎館があり、小布施観光のメインの場所です。
北斎館近くの大型駐車場には引っ切り無しに大型バスが出入りしていました。(日曜日だから?)
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北斎館

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祭屋台と天井絵は、専用の室でガラスケースに収められて厳重に管理されていました。

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波図は大英博物館に貸出中でレプリカの展示でした。


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高井鴻山記念館も北斎館近くにあります。
チョット?歩くと「おぶせミュージアム中島千波館」にも行けます。


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高井鴻山記念館
この館で旦那さん、先生と呼びあった、30代後半の鴻山と80歳を過ぎた北斎は、何を話したのでしょう・・


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おぶせミュージアム中島千波館

この日帰り旅、岩松院と北斎館を訪れることができただけで満足!
小布施の観光エリアは比較的小規模といえますが、あれこれ見て回ろうと欲張ると時間が足りないな!と思いながら帰路につきました。
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北斎の作品は何れも、撮影不可です。
作品の画像はチラシ等から引用しました。


小布施文化観光協会公式サイト

動画にまとめました。

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2017.06.26

日光東照宮に行ってきました(陽明門) 2017年6月

陽明門【国宝】
日本を代表する最も美しい門で、宮中正門の名をいただいたと伝えられています。いつまで見ていても見飽きないところから「日暮の門」ともよばれ、故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500以上の彫刻がほどこされています。
(HPから)
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今回の日光東照宮参拝、主目的は修復完了の陽明門をじっくり観賞することです。
双眼鏡持参で鑑賞してきました。
しかし、実に500を超える彫刻が施されていますので、解釈も含めて一点一点鑑賞していては「日暮らしの門」の例えどころか、私の脳力ではすべてを把握するのは不可能です!
「日光を見ずして結構と言うな」は言い古されたフレーズですが、老若男女、外国人観光客、団体客も多く、騒々しいのは、残念ですが、仕方ないですね。

彫刻の詳細等に興味のある方は、DO Internetさんのサイト 日光国立公園 観光とレジャーに詳しい解説がありますのでご紹介しておきます。

見事な修復で江戸時代の彩色を取り戻していて見応え倍増です!
7色の岩絵具で全てが描かれているそうです。
(以下三点は、撮った写真をトリミングしたものです)
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鯉に乗った琴高仙

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唐獅子、多彩な表情も面白いですよ。
龍馬(りゅうば)もいますよ!よく見るとわかりますよ。
(龍馬のいい写真が取れなく、載せられないのが残念!)

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唐子の遊び
「子供が屈託なく遊べる平和な世の中でありたい」という願いが込められているといわれています。

動画にまとめました。
すべての彫刻を撮影することはできませんでしたし、重複している場面もあります、予めご理解の上ご覧ください。
写っている昇り龍、降り龍の天井画は狩野探幽が400年前に描きましたが、現在は複製画です。(オリジナルは宝物館蔵) 狩野探幽は東照宮の装飾デザイン全般を担当しました。

ガイドの皆さん定番の解説、魔除けの逆柱。
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陽明門は12本の柱で支えられています。
すべての柱にはグリ紋と言う渦巻きを2つつなげた形の紋様が刻まれていますが、その中の1本が逆さに刻まれています。(写真上)
これは形あるものは完成した瞬間から崩壊が始まるといわれることから、1カ所完璧でない部分を残して建物の長命を願ったのだといわれています。

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2017.06.24

日光東照宮に行ってきました(神厩舎) 2017年6月

日光東照宮・神厩舎(重要文化財)
神厩舎は、ご神馬をつなぐ厩(うまや)です。昔から猿が馬を守るとされているところから、長押上には猿の彫刻が8面あり、人間の一生が風刺されています。中でも「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻が有名です。(HPから)

Photo

建築様式:切妻造
素木造
妻入
一重
正面軒唐破風付
銅瓦葺

大きさ:
桁行三間(奥行:約6メートル)
梁間五間(横幅:約10メートル)

建築年
1636年(元和3年/江戸時代前期)

動画にまとめました。

全8面のレリーフには、以下の物語があります。
詳細な解釈もありますが、概ね以下の様です。
1面 母猿が手をかざして子猿の将来を見ている。
2面 有名な三猿の場面。3匹の猿がそれぞれ耳、口、目をふさいでいる。
「見ざる・聞かざる・言わざる」の意を表している。
子供の頃は、悪いことは見たり、聞いたり、言わないで育ちなさい 。
3面 座っている猿の姿。一人立ち直前らしい。
4面 猿は大きな志を抱いて天を仰ぐ。青い雲が「青雲の志」を暗示。
5面 猿の“人生”にはがけっぷちに立つときも。迷い悩む仲間を励ます友がいる。
6面 物思いにふけっている姿、恋に悩んでいるとか。
7面 結婚した2匹の猿。大きな荒波の彫刻は、これから夫婦で乗り越えてほしい。
8面 ラストはお腹の大きな猿。やがて母親になって1場面へと戻る。


修正完了レリーフは見事、物語性も含めて、素晴らしいと思いました。

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2017.06.23

日光東照宮に行ってきました。2017年6月

日光東照宮、輪王寺、小杉放菴記念日光美術館を巡ってきました。
東武日光駅に9時16分着
15時31分東武日光駅発の日帰りです。

主な目的は、修復を完了した陽明門をつぶさに鑑賞することです。
帰り際に、あと一時間・・と思いましたが、次の日のことも考えて帰路を急ぎました。
完璧な修復で見事に蘇っていました!
「日暮らしの門」・・・本当にそうだと思いました。

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表参道を歩いて、石鳥居に到着。

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石鳥居を通ってすぐ左側に五重の塔。

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表門
右側に拝観受け付け所。

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三神庫

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神厩舎・三猿

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御水社

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本地堂・鳴龍
堂内撮影禁止です!

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陽明門

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陽明門を通過して左側に神輿社。


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唐門(陽明門の正面)
唐門の奥が本社です。
拝殿できますが、撮影禁止です!

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東回廊・眠り猫

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坂下門をくぐって200の階段を上り奥社へ向かいます。

動画にまとめました。

由緒(HPから)
 日光東照宮は、元和(げんな)3年(1617)徳川初代将軍徳川家康公を御祭神におまつりした神社です。家康公は、天文(てんぶん)11年(1542)12月26日三河国岡崎城(愛知県岡崎市)でご誕生になり、幼少より苦労を重ね戦国乱世を平定され、幕藩体制を確立されました。そして、世の中に秩序と組織を形成し、学問を勧め産業を興し、江戸時代260年間にわたる平和と文化の礎を築き、近代日本の発展に多大な貢献をされました。
 家康公は、元和2年4月17日駿府城(静岡県静岡市)で75歳の生涯を終えられ、直ちに久能山に神葬されました。そして御遺言により、一年後の元和3年4月15日、久能山より現在の地に移されおまつりされました。正遷宮は、同年4月17日二代将軍秀忠公をはじめ公武参列のもと厳粛に行われ、ここに東照社として鎮座しました。その後正保(しょうほ)2年(1645)宮号を賜り、東照宮と呼ばれるようになりました。
 尚、現在のおもな社殿群は、三代将軍家光公によって、寛永(かんえい)13年(1636)に造替されたものです。

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2017.06.21

眠り猫の目・・・図面通りに塗り直し 日光東照宮

朝日新聞6月21日朝刊の社会面に次の記事が掲載されました。
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 59年ぶりに修復作業が行われ、昨年11月にお披露目された日光東照宮の彫刻眠り猫が、お披露目から1ヵ月半ほど「薄目を開けていた」ことがわかった。彩色の担当者が両目が開いているように描いていた。現在は改められ、目を閉じた表情になっている。
 修復は大正、昭和期の図面をもとに実施。図面では目の彫りの部分が黒で塗り上げられているが、彩色担当者は目の中央部分の黒さを強調し、周りは薄いグレーの2色としたため、薄目が開いたような状態に。
 日光社寺文化材保存会によると、工期はもともと今年3月までだったが、東照宮の意向で観光客に早く見せたいと前倒しで昨年11月に飾っていた。
 「時代によっては薄目を開けていた」との伝承もあると言うが、同会は確証はないと1月に図面通りに塗り直させた。
 保存会の工事監督の浅尾和年さんは「国宝でもあるし確たる根拠は無いことをやってはいけないと思った。まだ修理期間中だったので塗り直して工期に間に合わせた」と話している。

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「日光東照宮の彫刻眠り猫がお披露目から1ヵ月半ほど薄目を開けていたことがわかった」なんて!
この経緯は知りませんでした!
このときの表情、見たかったな~
確かに薄目をあけた感じ、この方が可愛いかも?撮影角度による違いかな~

日光には、今月行ってきたばかりなので、その時に撮った写真を掲載してみます。

東回廊・眠り猫
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右斜め下から撮った写真。
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上の写真から頭部をトリミングしました。
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正面下から撮った写真。
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上の写真から頭部をトリミングしました。
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東回廊・眠り猫の下を通過して奥社に向かいます。
踏ん張っている前足はいつでも敵に飛びかかれる姿勢であり、徳川家康公の御霊を祀る奥社を守っているといわれています。

また眠り猫の彫刻の裏側には、雀の彫刻があります。
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猫が起きていれば、雀は食べられてしまいますが、猫が眠っていれば安心できるというわけで、
徳川の世の天下泰平を祈って彫られたと言われています。

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2017.06.18

町田薬師池公園 しょうぶ・あじさいまつり2017

町田市薬師池公園 しょうぶ・あじさいまつり2017 
に行ってきました。

開催期間 6月10日~7月9日

「しょうぶ」の開花最盛期はそろそろ過ぎてきていると思いますが・・・・・
「あじさい」の最盛期はこれからです。

(HPから)
江戸系、肥後系、伊勢系など175品種、約2200株の花しょうぶが、清楚
な花を咲かせます。
 まつり期間中は、早乙女姿の花摘み娘が花の手入れを行います。また、
花の最盛期には薬師池産しょうぶの苗を販売します。
※見ごろは6月上旬~下旬です。

毎年同じような画像投稿で恐縮ですが、よろしければご覧ください。

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2017.06.06

江戸東京たてもの園に行ってきました (2017年6月)

「ル・コルビュジェと前川國男」展が開催されているのをきっかけに「江戸東京たてもの園」に行ってきました。

この園に移設されている「前川國男邸に行ってみたい」と、以前から思っていたこともあって・・・・

品川区上大崎に1942年(昭和17)に建てられた住宅。戦時体制下、建築資材の入手が困難な時期に竣工しています。外観は切妻や屋根の和風、内部は吹き抜けの居間を中心に書斎・寝室を配したシンプルな間取りになっています。(パンフレットから)

戦時体制下ということもあってでしょうか、今風に言えば「断捨離」?シンプル!
採光を目いっぱい配慮して、心地よい環境を整えています。
住んでみたい、素敵な家ですね。
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庭側から見た前川國男邸


この記事の最後の動画にも同じものが含まれています。

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高橋是清邸
部屋数が多く、建築材も立派ですよ。
赤坂にあった高橋是清邸庭園の一部の復元もされています。
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2階にあるこの部屋は是清の書斎、寝室として使われていました。
2・26事件で暗殺されたその部屋です。
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この展示空間では、タイムスリップした街に入り込んだような感覚に襲われます。
一番のお勧めエリア!

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上の写真中央にあるのが銭湯の子宝湯。
懐かしい!
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子宝湯の内部。

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デ・ラランデ邸一階は、カフェ「武蔵野茶房」として営業しています。
この日は、暑かったので、ビール飲みたかったけど・・・飲み始めると止まらないたちなので我慢!混んでました!
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紹介したい建物はまだまだ沢山ありますが・・・・
以下の動画で「たてもの園」の建物をほぼ網羅したつもりです。
建物内部は、ほとんど撮っていません、興味のある方は行かれて実見ということで。


江戸東京たてもの園概要(HPから)
 東京の歴史をふりかえると、江戸の昔から火事・水害・震災・戦災などにより、多くの貴重な歴史的建造物が失われてきました。現在もまた、社会・経済の変動に伴って、こうした文化遺産が失われつつあります。
 東京都は、1993年(平成5)江戸東京博物館の分館として、敷地面積約7haを擁する「江戸東京たてもの園」を建設しました。当園では、現地保存が不可能な文化的価値の高い歴史的建造物を移築し、復元・保存・展示するとともに、貴重な文化遺産として次代に継承することを目指しています。
展示について
《ビジターセンターの導入展示》
 日本建築の特徴と歴史、仕組み、たてもの園の建造物についてわかりやすく説明します。失われた建物の看板、模型、写真等を通じて、楽しく学ぶことができます。
《復元建造物と生活情景再現展示》
 都内に存在した江戸時代前期から戦後までの文化的価値の高い建造物を復元・展示するとともに、建物の内部では生活民俗資料などを展示し、それぞれの時代の生活や商いの諸相を再現しています。
《遺跡・遺構の展示とまちなみの再現》
 旧武蔵野郷土館が調査・収集した考古・歴史・民俗資料や歴史的建造物の遺構などを屋外展示しています。また、復元建造物によって、下町と山の手のまちなみが再現されています。
《旧武蔵野郷土館資料の展示・特別展》
 旧武蔵野郷土館から引き継いだ資料の展示や復元建造物、多摩地域の歴史などをテーマとする特別展を開催しています。
《旧武蔵野郷土館とは》
 江戸東京たてもの園が建設されたこの地には、1991年(平成3)まで「武蔵野郷土館」があり、原始、古代から近・現代にいたる武蔵野の生い立ちをテーマに、さまざまな博物館活動を行っていました。江戸東京たてもの園は、旧武蔵野郷土館の貴重な資料を引き継ぎ、その資料を展示室と屋外に展示しています。

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2017.06.02

散策中に見かけた草花(2017年5月)

人気の花咲く公園、施設にも行きたいな~と、数か所かについて計画はしたものの混雑、渋滞を考えて躊躇してしまいました。
ということで、以下、散策中にスマホで撮った写真です。

可憐な花が好きなのですが・・・・・6月は、花菖蒲、紫陽花が見ごろになりますね。

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おおやまれんげ(大山蓮華)  もくれん科

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ふたりしずか(二人静) せんりょう科
別名 早乙女花(早乙女は田植えをする女性のこと)
能の謡曲「二人静」に由来する。

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えびね(海老根)  らん科
名前の由来は、地下に連なっている茎と、そこから生えている根の様子がエビの頭を指でつまんで持ち上げたように見えることから付けられた。根が海老に似ているため。

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かきつばた  あやめ科
衣に摺り付けることが書付花に転じたといわれているが正式にはよくわかっていない。

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すいれん(睡蓮)

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ふじ(藤)  まめ科

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あさざ(浅沙) みつがしわ科
花が咲くのは晴れのときだけで、くもりや雨の日は咲かない。

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ははこぐさ(母子草)  きく科
春の七草 御形(ごぎょう)のこと。


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あまどころ(甘野老)  ゆり科
根を食べると甘みがあることでこの名が付いた。同族のなるこゆり とよく似る。 

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こでまり(小手毬) 薔薇科

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へびいちご(蛇苺)果実
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「へびいちごの花」先月UPした写真です。

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ひめかんぞう(姫萱草)  ゆり科
日本では江戸時代から栽培されていた。

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ぼたん(牡丹) 牡丹(ぼたん)科

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こうほね(河骨)  すいれん科
名前の由来は、水中にある根茎が白く骨のように見えることから付けられた。
生薬 川骨(根を縦割りにする)

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うつぎ(空木) 雪の下(ゆきのした)科 

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2017.05.22

三社祭2017の最終日に行ってきました。

三社祭(浅草寺)最終日の午後に行ってきました。
今年はパスかな~
と考えていましたが、「迷ったら行く」という考え方をするたちなので・・・・

夏のような暑い気候の為でしょうか?去年より人出が少しだけ?少ない様な気がしました 。
と言っても、大変な賑わいですが・・・・ 

皆さん直射日光を避けて、日陰で観覧していたからかもしれません。

所要があって、宮入の時間までは居ることができませんでした。
宮入コースの屋台が店じまいを初めて、宮入り観覧目当てに人々が集まりだすのをしり目に帰路に着きました。

以下、同じような動画を何度も・・・で恐縮ですが・・・・

お祭り広場のの様子です。
皆さん、撮影ポイントは同じようで・・・・


神社境内を巡行する神輿です。
お祭り広場に戻ります。


巡行を終えて、町内に戻ってきたときの摸様です。
これで、今年のこの町内の神輿巡行は終了。

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2017.05.15

神田祭神輿宮入(平成29年度)

江戸総鎮守神田明神平成29年度神田祭神輿宮入に行ってきました。

今年は、神輿宮入には行かずに神幸祭のみを観に行こうか?と思っていたのですが、神幸祭の日はあいにくの雨。
家は出たものの本降りの雨になってきたので引き返しました。

というわけで、神輿宮入の日に、三井記念美術館に寄り道してから行きました。
三井記念美術館でチョット不愉快なことがあって、早々に退館・・・・この美術館には10年以上ほぼすべての展覧会を観に行っているのですが・・・・顧客対応がどうも好きになれなくて、行くのに気が重くなることがあります。(あくまでも私個人の感じ方でです)

美術館を出て日本橋の街に出ると、室町で神輿巡行が行われていました。
宮入を済ませて町内に戻り、町内神輿巡行を行っているところの様でした。

そして神輿宮入観覧に神田明神へ・・・・
神田明神にはお茶の水駅から向かうことが多いのですが、今回は秋葉原駅で降りました。
駅前では、和太鼓の演奏、電気街の神輿広場?では二基の氏子を乗せた神輿が、行ったり来たりしていました。
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秋葉原電気街で・・・

何しろ、200基程の神輿宮入が行われるのですから、交通規制している巡行路には町会神輿毎の渋滞が発生します。担ぎ手達は、道端に座り込んで、お酒を飲んだり、タバコを喫ったり・・です。
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そして、神田明神では引っ切り無しに各町会の神輿が宮入してきます。
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随神門から境内に入ってきた神輿。

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神殿前で、神輿を正面に向かせるための調整を繰り返して・・・

一日中続いた神輿宮入も、終わりに近づいて千貫神輿「神田市場神輿」の宮入です。
皆さん千貫神輿の宮入時間をご存知のようで、観客の数がMAXになります。

警官が場内整理に従わない男を怒鳴りつけたり、神輿が観客に迫って・・最前列の人が押し倒されたりの騒ぎです。

女神輿が先導して、神田市場神輿が大鳥居に向かい、神庭明神境内に入っていきます。
「担ぎ手は1グループ200人総勢2000人」という話を聞いたことがありますが、過大な表現でもない様な気もしました。
神田市場神輿は大きいので隨神門の下は通過しないで、道を右に曲がって神殿前まで巡行します。


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帰り道の子供神輿・・・かわいい子供たち。

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―神田祭とは―
HPからです。

江戸時代の神田祭

 「天下祭」として知られる神田祭は、元和年中までは船渡御であったと言われている。延宝年中までは毎年斎行されていたが、山王祭(千代田区・日枝神社)と隔年で斎行することになり、以後今日までに2年に一度斎行されることが恒例となった。
 江戸幕府の庇護を受け、江戸城・内曲輪内へ、2基の神輿、36番45本前後の山車や附祭、御雇祭などからなる祭礼行列が練りこみ、徳川将軍や御台所の上覧があったことなどから、江戸の庶民たちからいつからか「天下祭」と称されるようになった。
 また、江戸時代を通じて全国的に有名な祭のひとつとして「日本三大祭り」「江戸三大祭り」の中に数えられたている。

明治時代から昭和戦前
 
 明治に入り、神田明神から神田神社と名前を変えたが、明治17年に46本、明治20年に40本の山車が出され、江戸時代と同じくらい盛大な祭礼が行われた時もあった。しかし明治25年、台風の影響などから祭月が9月から5月に変更されたり、不景気と電線架線などの影響もあり、山車が出されなくなっていき各町に備え付けられるのみとなった。

 大正時代に入ると、神社の神輿が渡御する「神輿渡御祭」へと変遷していき、各氏子町は町神輿を作り担ぐようになっていった。渡御祭では、数日かけて神輿が氏子町々を隈なく渡御し長い日には1週間もの日数をかけて渡御が行われた。
 大正11年、2基の神輿を大鳳輦1基に改めた。残念ながら、この鳳輦は大正12年の関東大震災により焼失してしまい、たった1度の渡御しかしていない。
 関東大震災後、1度延期となったが昭和元年に復活、渡御祭の行列では葱華輦が出された。昭和9年には二の宮神輿が新調された。

戦後から
 
 戦後、祭の名称を渡御祭から神幸祭に変更され、昭和27年に初の神幸祭が斎行された。鳳輦が新調され牛が曳いて練り歩いた。また、この祭で氏子町会より町神輿の連合宮入が初めて斎行された。
昭和40年代になると、都心部における自動車などの交通事情の影響のため、5月中旬に行っていた神幸祭を祝日の5月2、3日に改められた。さらに神幸祭の日数も3日間より2日間、そして現在は1日となっている。昭和50年、三越より奉納された二の宮神輿が行列に加わった。
 昭和59年にご祭神に正式復座された平将門命の三の宮鳳輦が新調され昭和62年より行列に加わった。
 平成に入り、諌鼓鶏の山車の復活、相馬野馬追騎馬武者行列の特別参加、町田町火消行列、将門武者行列、静岡県三熊野神社より一本柱万度型山車が特別参加。平成15年には東日本橋二丁目町会により船渡御が復活。KIXプロジェクトやインターネット神田祭.chといったインターネットによる神田祭の生中継も行われ今に至っている。

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