玉川上水情死行

少々、刺激的なタイトルですよね。
最近、あちらこちらで、太宰治が話題です。
梶原悌子の著作です。
2002年第一刷
作品社
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少々、刺激的なタイトルですよね。
最近、あちらこちらで、太宰治が話題です。
梶原悌子の著作です。
2002年第一刷
作品社
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わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
八木重吉は、どんな気持ちでこう記したのだろうか。
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「幸福」を失ふたひとは
うつむいて 考えるがよい。
どこか まちがっているかもしれない。
「幸福」を押しやっといて
「幸福」を探すならそれあ、無理だ。
だがー「幸福」って、あるんだろうか?
永遠の課題ですよね。
八木重吉記念館、行こう行こうと思いながら....未だに。
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美術もいいですけど、本の魅力勝るとも劣らずですよね。
タイトルの本、開高健没後二十周年記念刊行だそうです。
むしょうに本が読みたくて図書館で見つけました。
以下のフレーズ、いかにも氏らしい表現と思いませんか....
現代は考えることのできる人にとっては喜劇。 感ずることのできる人にとっては悲劇。こういう時代です。
いつの時代もそうかもしれないがね。
それで、考えることのできる人と感じることのできる人の数を比べてみると、
いつの時代も感ずることのできる人がごく少ない。
だから喜劇の時代だてことになるな。
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文春のまわしものではありません。
3月号に五木寛之、山折哲雄の対談が載っています。
「不況と親鸞」という題です。
そこから下記に引用します。
山折 そういえば、「雨ニモマケズ」に「ヒデリノトキハナミダヲナガシ}とあるでしょう。あれ、賢治の手帳には「ヒドリ」と書かれているんです。「サムサノナツハオロオロトアルキ」の対句的表現だろうと、研究者が「日照り」に直してしまったんですよ。五木 ほう。私はずっと「日照り」、干ばつの夏だと思っていました。
山折 でも、花巻あたりでは日が照れば不作なしで、農民たちは喜ぶはずです。むしろ、夏に気温が上がらないことのほうが恐ろしい。実は、ヒドリというのは方言で「日取り」、日雇い仕事のことなんです。「雨ニモマケズ」が書かれた昭和六年頃、不作のために土木の仕事をやったり、他県に出稼ぎにい行く農民が大量に発生していました。そういう人々はいわば人別帳の世界を離れて、一種のアウトロー、戸籍のない境遇になってしまいます。今、派遣切りなど非正規雇用の人々の生活の問題がクローズアップされていますが、状況はまさしく重なるのです。
昨年平塚美術館で、賢治の手帳を見てきたのですが、全く気にも留めませんでした。
矢張り、学者、作家の視点は違うのですね。
このような記事に接すると、とても得した気分になります。
会社帰りの電車の中で読みました。
太字部分は、私が行いました。
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第百四十回芥川賞受賞作を読んでみました。
ほんの概略を以下に。
契約社員として働く女性ナガセは、勤める会社の掲示板でNGOの「船で世界一周の旅」というポスターを見つける。
その費用は、自分の年収とほぼ同じだ。
ナガセは生活のために、大学の同級生が経営する喫茶店で就業後働いたり休日には、パソコン関連でのアルバイトもしている。
ナガセは、契約での収入以外で生活して、「世界一周の旅」の費用を捻出することを思い立つ。
母と、改修が必要な古い家に住むナガセ、そこに境遇の異なる同級生、会社の同僚の人生が絡み合う。
作者の津村記子は受賞の言葉の中で、こう語っています。
これからも、ポトスをいやいや育てるとか、ちまちま節約するだとか、信頼している人と喋りながらごはんを食べるなどといった、生きていることの細部を、どんな劇的な営為よりもかけがえのないものとして、読み手の方に届けることができるような小説を書いて行きたいと思います。
私は、面白く読ませていただきました。
読書に、新しい知識等、何か得る事ばかりを期待しすぎる私の傾向はゆとりがなさ過ぎると思ったりしました。
氏の受賞の言葉に、読書の楽しさをあらためて教えられたような気持ちがしました。
このような小説を読み続けますかと問われると、「はい」とは.....
たまにはということで。
ちょっと酩酊です、まとまりがなくてすみません。
中川財務大臣ほどではないとおもうのですが。
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岩波新書 2008年4月22日 第1刷発行
この類の投稿は極力遠慮してきたのですが、今年最後の投稿として、この本を選びました。
今年を、ある意味象徴していると思うからです。
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島尾敏雄 著
昭和56年発行
平成17年38刷
十数年来(少々オーバーかも)読もう読もうと気にかけていた本、やっと読みました。
ADSL不調のおかげ?かもしれません。
秋だからでしょうか?
むしょうに、本が読みたくなって。
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立松和平の「奥の細道」内なる旅(佼成出版社)
がなかなか面白い。
TVでお馴染みの饒舌さは、文章にも表れているようです。
行く春や鳥啼き魚の目は涙
千住での仲間との別れ、行く先、奥の細道への思い。
この時期、似たような心境の方もおられるのではないでしょうか。
いい句ですね。
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三鷹時代の、太宰に関する記事を最近掲載していた朝日新聞ですが、今日の朝刊に、この記事がありました。
以下、要約です。
民喜は、普通の社会生活を送るのが困難なほど極端な無口だったとされるが、発表稿には無い、「一人立ちできない大人になっていた」原因が草稿には直接記載されており、民喜の人格形成の原点に迫る資料として注目される。
遺族から寄贈された資料の中から、研究者が見つけた草稿だそうです。
民喜が社会不適合者になった原因として、これまでも11歳の時に純真な父親を亡くしたことが一因ではないか、との見方があったが、今回発見された草稿には、それを裏付ける直接的な記述がある。
<父を失ってからの私は、何かこの世に漲る父性的なものに絶えず威圧されて・・・・・・人と争うことも親しむことも好まず内側へ内側へと消え入らうとした。さうして、何時までたっても一人立ちの出来ない大人になっていた>
興味をお持ちも方は、3月11日の朝刊をご覧ください。
全文は4月10日発売の「三田文学」春季号に掲載されるそうです。
是非読んでみたい。
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この本は、売れているようですね。
色々な方が、紹介しています。
売れている本は読まないというのが私の主義ですが。
実は、しばらくして読まずにはいられなくなるのですが。
マラソンと創作活動についての随筆ということなので、読んでみました。
世界的な名声を得ている氏と比較するなんてとんでもないことですが、読み始めて直ぐ感じたこと。
氏は音楽を聴きながら走るんですね。
相変わらず固有名詞が次々出てきますね。
私は、絶対しません。
何故と言われても、返答の使用がありません。
私にとっては、そのほうが自然なんです。
走っていて、飽きるなんて一度も感じたことはありません。
走っている時の皮膚感覚がすきなんです。
多分、氏ほど几帳面に距離をこなす生活ではないからかもしれません。
小説家としての氏の生き方は、嫌いではありません。
氏も書いておられるように、夫々の作法があるのは当然ですから。
むしろ、好きなほうです。
ハーバードの新人女学生(ポニーテールの)に抜かれる場面では、代々木公園で中学生陸上部(女子)に追いつかないことをを嘆いたのを思い出しました。
足が痙攣して地獄を味わった場面は、青梅マラソンで同じ経験をしたなーと懐かしく思い出しました。
走る人の共有感覚って確実にあるんだな.........。
うれしかった。
氏の小説は数えるほどしか読んでいないので、何も書くことができないのですが。
強烈な印象はありません。
でも、先を読みたくさせる力は確実にありますね。
氏の生き方からこのような小説が生まれるのだなーと思ったりもしました。
変な感想ですね。
正月休みに、もう一冊長編を読んでみます。
もっと、書きたい事が山ほどあったはずなのに.....。
呑んで、書いてはいけませんね、反省します。
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今は取り壊されて、工事中の渋谷、東急文化会館の三省堂書店で、寺山修二さんをお見受けすることがよくありました。
ぎらぎらと輝く眼光は今でも思い出します。
マッチ擦るつかのま海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや
寺山修二とあの時代を彷彿とさせる詩だと思いませんか。
最近、氏に関する記事を新聞紙上等でよく見かけます。
何故?と思ったりします。
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雨の日
雨がすきか
わたしはすきだ
うたを うたおう
八木重吉 「貧しき信徒」から
この時期、ジョギング中に雨が降り始めると何故か嬉しくなります。
雨粒の一つ一つを肌に感じながら、妙に子供の頃の情景を思いながら走ります。
「よく生きるということは、よく感じることである」
こんな言葉も思いながら走ります。
明日は晴れ模様です、勿論走ります。
雨が降っても......。
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フランスの神学者デュジャメルの言葉だそうです。
河合隼雄の「神話と日本人の心」は学者らしく洋の東西を問わず多方面の文献を引用して、日本神話の意味と魅力を語っています。
次に、本書の序章の部分から引用します。
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最近、読書量が極端に減って、反省しています。
ただ、読書欄は好きで必ず読みます。
先週、日曜日の朝日新聞には、評者柄谷行人の、金と芸術(ハンス・アビング著)が掲載されていました。
面白かったので、要約します。
前略
二十世紀前半に、前衛芸術は「芸術の神話」を破壊しようとした。たとえば、「泉」と題して便器を出展したデュシャン。それは、いかなるものも芸術でありえるという主張である。しかし、ブルジョアは、そのような前衛芸術を高尚な芸術として仰ぐことによって、その破壊性を消してしまった。
中略
では、なぜ芸術に贈与したがるのか。
わが国は、わが社は、芸術に理解がある、というポーズを示したいからだ。芸術を神聖化するシステムは、国家と資本を神格化するシステムにほかならないのである。
さてさて、私も何かの渦に巻き込まれた行動しているのかも.......。
飲んでますので......この投稿は、覚めたら削除するかもしれません、あしからず。
知の巨人、立花隆
「(読書の)欲望がなくなったら、その人はすでに知的に死んでいる」。
私は、半死状態かもしれません。
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図書館で見つけました。
「こんな人生もあるのよ」と静かに話しかけてくるような、清流のような人生を綴った本です。
吉野富子著
1976年初版 彌生書房刊
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蜂
蜂が一晩 僕の病室に泊まって行った
朝 知らない間に出て行ったが
今夜も天井に泊りにくるだろうか
あの蜂は何か僕に用があったのではないか
高見 順 重量喪失より
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昨日の新聞記事を目にして、読み直したくなって、夜中に本棚を探しました。
率直な詩がとても好きです。
果物《くだもの》
秋になると
果物はなにもかも忘れてしまって
うっとりと実《み》のってゆくらしい
秋だ
草はすっかり色づいた
壁のところへいって
じぶんのきもちにききいっていたい
私
ながいこと病《や》んでいて
ふと非常に気持がよいので
人の見てないとこでふざけてみた
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水上勉は、小説「蓑笠の人」で飢饉ににみまわれた時代を背景に生きた同郷二人、水呑弥三郎と良寛の生涯を綴っています。
良寛に対する、角度を変えた見方を提示しています。
名主の子として生まれ、18歳で出家し、後に貧しい庵に住み、托鉢生活。子供との戯れ、書を記し、貞心尼と和歌を交わし......今なお高僧仰がれる良寛。
凶作の世に、行動を起こし、その事により、佐渡に流され過酷な人生を送らざるを得なかった名もなき水呑弥三郎。
すべてを失いながらも「親さま」を信じきって菩提寺で立亡した弥三郎。
「うらをみせおもてをみせて散るもみじ」最後の歌を残して逝った良寛。
おなじ蓑笠の人。
以下は、水呑弥三郎の言葉とされている。(同書から引用させていただきます)
「幼のうして無常をおぼえ、寺子屋にゆきて出家の道を志せとも水呑みは出家もご法度なりしため、爾後、出家は思いとどまりて、働きて生くることを心がけ、田をつくり、山を伐り、海に出て舟をいだすを道と心得ぬ。道はくらしの中にありて、学習の中になかりしことを知りたるのはのちのことなり、学習をもって道をもとむれば道はさらに遠のきて、掴めることなけれども、暮らしの中にあれば、道は足下なり。世の人、道を求めて出家するときくは不可解なりと」
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今年の芥川賞受賞者絲山秋子さんの小説です。
こういう短編小説をなんとなく読んでみるのもいいのかもしれません。
帰宅電車の待ち時間、駅の売店で、目に付いたので、買って読みました。
帰宅までの時間で読みきりです。
同期入社の男女(太っちゃん、及川)が、恋愛感情なく、同期の仲間として、働き、のみ、会話し、そして飲み屋である約束をします。
その約束とは、「どちらかが先に死んだら、残った者が、先に死んだほうのPC内のHDDドライバーを破壊し、記録を消滅する」と言うものです。
そして、太っちゃんが不慮の死を遂げます。
及川は、一人、単身赴任していた太っちゃんのマンションに向かいます。
何かドラスティックな展開があるわけでもありません。
我々が普通の生活の中で考えそうなこと、行っていること?が淡々と書かれています。
こういう小説をなんとなく読んでみるのも、楽しい時間の過ごし方なのかなと思ったりしました。
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「神を物として考えると分からなくなる。むしろ働きのほうがいい。物として考えるとどこかにいるような感じがするから余計に分からなくなる。神は全ての物の中に働いている。そう考えるほうが現代人にも分かる」 遠藤さんはよくそういっていました。 例えば、人と人との出会い。出会いの、不思議さの裏にはXがあると遠藤さんが言う時には、そういう力をいっていると思う。 遠藤さんの短編「もし......」にこんな一節があります。一人の人間が他人の人生を横切る。もし横切らねばその人の人生は別だったかも知れぬ。そのような形で我々は毎日生きている。そしてそれに気づかぬ。人々が偶然とよぶこの「もし」の背景に何かがあるのではないか。「もし」をひそかに作っているものがあるのではないか。
”我等なぜキリスト教徒となりし乎”から引用
安岡章太郎、井上洋冶 著 1999年初版
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「あなた」とは、神のことです
の書き出しで始まる高橋たか子氏のエッセイはとても示唆に富んでいます。誤解を恐れずに、このエッセイの最後の数行を次に引用させていただきました。(信者ではない私にとって、”神の愛”について、こういう表現も、理解の一助になるのかなと考えさせられました)
つまり、神を愛することへの通路が、男女が愛し合うことの奥にある。女が愛する男に、または男が愛する女に、(肉体ではなく)心を果てしなくもらいたいと思って、どんどんもらうことを通りぬけていくと、いつのまにか、神を果てしなくもらいたい自分に変っている。逆にいえば、愛し合う一対一の男女が、相手に対して本当に欲しいと思っているのは、相手のなかに透けて見えている神なのだ。そう気づかずにさえ。透けて見えているものが見えずに さえ。
高橋たか子著 霊的な出発 1985年初版
オリンピック観戦と、暑い時にこそ身体を動かして、汗をかくのがいい、とばかりに、殆ど本を読まない夏を過ごしてしまいましたが、不思議なもので、暑さを過ぎると、自然に本棚に足が向き、過去読んだ本を再読してみる気になりました。
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人生を意味あるものにできるのは、第一に、何かを行うこと、活動したり創造したりすること、自分の仕事を実現することによってです。第二に何かを体験すること、自然、芸術、人間を愛することによっても意味を実現できます。第三に、第一の方向でも第二の方向でも人生を価値あるものにする可能性がなくても、まだ生きる意味を見いだすことができます。自分の可能性が制約されているということが、どうしようもない運命であり、避けられない逃れられない事実であっても、その事実に対してどんな態度を取るか、その事実にどう適応 し、その事実に対してどうふるまううか、その運命を自分に課せられた「十字架」としてどう引受けるかに、生きる意味を見出すことができるのです。
あの「夜と霧」の著者V・Eフランクルの「それでも人生にイエスと言う」から引用しました。
拉致被害者の方々の運命を決めたのは何なのでしょうか...........
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